8月4日(日)「日用の糧」説教要旨

           聖句
旧約
 「モーセとアロンは、イスラエルのすべての人々に言った、『夕暮には、あなたがたは、エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう。また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれに向かってつぶやくのか』。モーセはまた言った、『主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主に向かってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれに向かってでなく、主に向かってである』。」  (出エジプト16:6-8)

新約
 「イエスは答えて言われた、『あなたがたの手で食物をやりなさい』。弟子たちは言った、『わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか』。するとイエスは言われた。『パンは幾つあるか。見てきなさい』。彼らは確かめてきて、『五つあります。それに魚が二匹』と言った。そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。それから、イエスは五つのパンと二匹の魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二匹の魚もみんなにお分けになった。みんなの者は食べて満腹した。そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。パンを食べた者は男五千人であった。」  (マルコ6:37-44)

  ふつう私たちの生活は、衣食住と言います。そのうち衣と住は、ある程度、恒久性のあるものです。しかし、食だけは、毎日消耗され、食べればなくてはなりません。いわば日毎の消耗品です。人間も動物も、食なしには生きてゆくことができません。たとえ住まいや衣服がなくても、ある程度生きてゆくことはできます。しかし、食物なしには、生きることができません。しかし、今日の聖句は旧約も新約も、この食物が、神からの賜物であることを表しています。

  「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう」(出エジプト)「天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ」(マルコ)。

  しかし、「イエスは五つのパンと二匹の魚とを手に取り」、これは小さな少年がおやつにもってきたものでしょう。イエスは決して空からでなく、地上においてあるものから、私たちの持つ小さなものから奇跡をおこないたもうことが分かります。このことを忘れないようにしましょう。次に「あなたがたの手で」とあります。私たちは何かする時、環境を見たり、素材、資質などをしらべて、できるかできないか計算します。しかし、そこには神の御業が計算に入っていません。私たちは、いつも事をする時、神のなさる業を忘れて、自分たちのすること、人間のもとにある素材にだけ目をやります。しかし、イエス・キリストは何から何まですべてをなさるわけではありません。「あなたがたはいくつのパンを持っているか、行って見てきなさい」。こうしてイエスは彼ら人間の持っているものを調べさせ、それを基にして奇跡を行います。奇跡と言っても、こちら側に何もないのではありません。ほかでもなく、私たちのもっているわずかなパン、それを土台にして、奇跡を行います。これを忘れてはなりません。私たちの持っているわずかなもの、それを基にして、イエスは奇跡を行います。私たちのもつ小さなものを用いて、イエスはさらに大きなことをなさるのです。

  しかし、皆さん、今、現在の私たちの状況はどうでしょう。考えてみてください。日本ではパンはいくらもあります。お金もあります。では今、何が足りないのでしょうか。それは私たちのもつわずかなものをイエス・キリストの前に差し出すことです。「イエスは五つのパンと二匹の魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二匹の魚もみんなにお分けになった」。足りないのは、この天を仰いで祝福することです。私たちのすることは、いつも地上だけで、この天を忘れています。今、パンもあります。お金もあります。たりないのは、天を仰ぐ信仰のみです。すべての物がありながら、天とつながりを持っていません。物質が欲望の対象となっても、決して祝福する対象となっていません。ここに今の時代の欠けているものがありはしないでしょうか。預言者アモスは言いました、「これはパンの乏しきにあらず、水に渇けるにあらず。ただ神の言葉を求めることの飢饉である」(アモス8:11)と。

  私たちはここで聖餐のことを思い起こしましょう。パンをさしてイエス・キリストは、「これわがからだなり」と言われました。物質の指示機能あるいは象徴機能と言いましょうか。聖書には、地上の物質に、精神的なことを象徴する機能があると見ています。私たちはただそれは地上の物質と馬鹿にしてはなりません。そこに私たちの信仰があればですが、その前提で、この指示機能は成立いたします。何でもかんでもそうなるのではありません。イエス・キリストが語られたこと、すなわち洗礼と聖餐にかぎって、それが可能です。洗礼の水は信仰においてイエス・キリストの約束が生きているのです。それは同時に聖霊によって清められるしるしです。聖餐も同じです。パンとブドウ酒はイエス・キリストの十字架の肉と血に変わる訳ではないが、信仰においてそれは出来事として十字架の愛につながるのであります。信仰には、このような指示機能、象徴機能があります。

  「夕暮には、あなたがたは。エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう」。また新約では「イエスは五つのパンと二匹の魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二匹の魚もみんなにお分けになった」。これもある意味で、私たちに対する象徴機能を表しています。そこで荒野の誘惑の時、イエスは悪魔に「この石をパンにならせよ」と言われた時、「人の生きるはパンのみによるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ4:4)。確かに私たちは、パンで生きていますが、それは動物的生命についてだけです、霊的生命はどうでしょう。食って生きるだけなら、動物と同じです。人間にはもう一つ精神的生命があるのではないでしょうか。それは愛と言ってかまいません。愛を失ったなら、ただ息をしているだけの生きていることはあまり意味がありません。

  聖餐の象徴機能は、地上のパンが、霊的いのちを表すとしています。それは変化するわけではありません。しかし、ただそう思う、心に固く念じるというだけのものでもありません。私たちは聖餐式の時、日常生活での食事のことを考えるでしょうか。あまり考える人は少ないと思います。さらにその食事は象徴的機能があって、霊的食事を表すと考えるでしょうか。その表しているものは、まさにイエスの言葉、「人の生きるはパンのみによるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」であります。
   


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