2013年8月18日(日)主の祈り連続説教-7「試みにあわせず」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「あるいはまた、あなたがたの神、主がエジプトにおいて、あなたがたの目の前に、あなたがたのためにもろもろの事をなされたように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、強い手と、伸ばした腕と、大いなる恐るべき事とをもって臨み、一つの国民を他の国民のうちから引き出して、自分の民とされた神が、かつてあったであろうか。あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神はないことを知らせるためであった。」  (申命記4:34-35)

新約
 「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである。」  (Ⅰコリント10:13)

  「試み」という言葉には、ふつう二つの意味があります。一つは、「試練」です。もう一つは「誘惑」です。悪魔のさそい(誘惑)のようなものも「試み」という場合があります。しかし、この二つは厳密に分けることはできません。二つは重なりあっています。それでも一応わけることができます。同じ一つの出来事が、それに出会った人の態度によって、試練ともなり誘惑ともなるのです。賛美歌の316番に「主よ、試みうくるおり、祈りたまえ、わがために、心恐れ、まどうときも、愛のみ顔向けたまえ。世の宝は目を奪い、ほまれ耳をまよわす日、罪なき主のみ苦しみを、示したまえわが胸に。わずらわしき世のわざに、やるせもなき、悲しみに、なおひそめる、み慈しみ見させたまえあやまたず」とあります。一つは、「世の宝は目を奪い、ほまれ耳を迷わす日」に、イエスの十字架のみ苦しみを示してください。ここでは金銭や栄誉に目がくらむ時、その解決は十字架の主を仰ぐことだというのです。試練の勝利は、十字架の信仰であります。

  さてここには、まず第一に「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない」とあります。つまり私たちはとかく、試練に会うとびっくりし、「こんなことではなかった」と混乱する人が多いのです。しかし、それは「世の常」だと。当たり前に起こること、しょっちゅうありうることだというのです。むしろ試練のない世の中を連想することの方が難しい。そこで「神は真実である」とあります。真実な神は「あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである」。試練に会う時、私たちはその現実に捕らわれて、もう一つの大切なこと、真の現実を見落としてしまいます。それは神の現実、「神の真実」であります。試練の現実に、まるでそれとは無関係と見える、「神の現実」、「神の真実」に目を向けるのです。その時、見えてくるものがあります。それは「試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである」という現実です。「真実」ということは、「うそをつかない」こと、つまり「一度語ったことに背かないこと」です。神がいたかと思うと、ある危機の時にはいなくなるというのではありません。神がいなくなると思うのは、愚かな人間の考えに過ぎません。神の真実は、どんな時にも変わらないことです。変わる現実、たえず目まぐるしく変わる現実に対して、神の真実は変わりません。神はたえず愛であり、あなたのためにそこにいますことは変わりません。その神の真実を信じて生きる時、私たちは恐れません、心配することもありません。変わり行く世に、変わらぬ神を信じるのです。へんぺんきわまりない世の中、その中をつらぬいている神の真実を信じ抜くこと、それが真の信仰にほかなりません。

  私たちはふつう、世の中が変わるとすぐ心配になり、それに対応するには、こちらも変わらなくてはならないと思ってしまいます。確かに、世の変化に対応しなくてなりません。けれども、それはそこに変わらない神がいますからです。自分中心で、回りに対応し、ああもこうもとしょっちゅう変わっていたなら、根無し草になってしまいます。私たち信仰者は、しっかりと神の真実に根差し、この世の変化に動かされてはなりません。変化に対する対応の仕方は、神の真実から来ます。そこに根差していれば、世の変化に驚きません、うろうろしません。一番いけないのは、世の中の変化に翻弄されて、あちらに行ったと思えば、こちらにと言うように、たえず心が定まらず動き回ることです。シーソーゲームを見ましょう。確かにたえず上下に動いています、しかし、その動くのは、真ん中にしっかりと心棒があって支えられているからです。私たちの動きもこのシーソーゲームでなくてなりません。神の真実にしっかりと根差し、その上で、自由にうごくのです。

  さて神の真実に根差す時、神は試練と共に、「逃れる道」を備えたもうというのです。その試練のただ中に、信仰をもって静かに冷静にみるならば、必ず逃れる道があるはずです。そしてそれを見いだすはずです。
   


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