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8月25日(日)「国と力と栄え」説教要旨
  聖句
旧約 「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。」  (詩編8:1-2)
新約 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」  (ヨハネ1:14)
 主の祈りには、最後に「国と力と栄えとは限りなく、汝のものなればなり」とあります。もし私たちが主の祈りを祈っている相手(神さま)が、力をもっていなければ、私たちは祈っても無駄でしょう。なぜなら、それをかなえてくれることのできない者に、願っても、無力な相手では聞くことなどできないからです。私たちが祈る相手は、力強い、全能の神でなければなりません。しかし、私たちはこのことで確信をもてるでしょうか。私たちは祈る時、一番大切なのは、願いの内容です。お金がない時は、お金が、力のない時には、力が大切です。それさえ得られれば、後はどうなってもかまわない。いわば祈りの成果主義です。聞かれさえすればよい、それなら、日本でよく言う、「鰯の頭も信心から」とならないでしょうか。信じる対象は何でもよい、「鰯の頭」でもよい、要は聞かれる内容だ。
 しかし、祈りには、正しい祈りと正しくない祈りとがあります。祈る対象が、全能の父なる神でないと、たとえば「鰯の頭」ならばどうでしょう。その祈りはまじめなものでしょうか。その場合、祈りは、捧げる相手は何でもよい、祈りは、祈る自分のまごころさえあればよいということになります。その場合、「祈り」は、きわめて主観的なもので、何ら客観性のないものになります。もっと極端に言えば、ただ音声の響だけで、実態のないものになります。「祈り」は、聞かれる祈りである以上、聞いてくださる神がなくてはなりません。それが鰯の頭なら、本当の意味で「祈り」とは言えないでしょう。祈りには、「力」が必要です、しかも実質的な力が、からいばりのような空虚な力ではなく、神の生きた力が必要です。
 次に「国」とは何でしょう。もちろん、地上の諸国ではありません。「神の国」です。ある意味で神の国が到来することは、すべての祈りの成就につながります。その意味で、神の国は祈りの究極目標ではないでしょうか。その時、私たちの祈りは、壮大なスケールをもった、今の言葉で言えば、「グローバル」なものになります。私たちの日常の関心は、ほとんど地上の国、日本とか中国、アメリカです。その経済状態、軍備の問題、あるいは政治的に保守か革新かとか、ともかく問題になることは、すべて地上的富や組織の問題に限られます。しかし、それらの国々は、歴史の中で興亡が激しく、今隆盛を誇っていた国も、明日には滅びることは、歴史の証明するところです。今信仰者が求め、祈るものは、そのような興亡盛衰の激しい地上の国々ではありません。それは単数でいえる国、永遠に変わらない国、つまり「神の国」であります。それは私たちすべての者の目指す目標であり、目的であります。それゆえ御名の次に、御国が来るのです。「神の国」であります。神の国は、神ご自身がご支配なさるところです。したがって、もしこの場所に「神ご自身が支配しておられるなら」、そこは神の国であります。賛美歌にも「ここも神の御国なれば」とあります。(賛美歌90番)。そうすると神の国には、二通りあることにないのです。一つは、やがて地上のすべてが完成される究極的な「神の御国」です。しかし、私たちにとってそのような完成された神の御国を見るのは、地上においてではありません。しかし、もう一つの神の国があります。それは「ここも神の御国なれば」の神の国であす。神学的には、初めのは「神の国未来説」、後のは「神の国現在説」と言います。信仰的には、この二つが成り立ちます。
 では二つはどうゆう関係にあるのでしょうか。未来の神の国は、完成した神の国であすが、現在の神の国は完成した神の国を待ち望みつつ、私たちの生きる一刻一刻毎瞬毎瞬、私たちの生のただ中に神の国があるのではないでしょうか。たとえで言えば、婚約した男女は、最終目標である結婚を目指します。しかし、結婚すれば、何でもよいのではなく、そこに至る過程というものがあります。それが婚約期間というものです。結婚しようとする男女は、そこに至る過程を大切にいたします。「ここも神の御国なれば」と同じです。結婚に至る一刻一刻、毎瞬毎瞬が大切になります。それは神の国の将来と現在に似ています。
 最後は「栄え」です。「栄え」とは、いままでの「神の国」や、「力」の内容を意味します。「栄光」とも言います。「神の国」や「力」に光輝きがなければ、何にもなりません。ただ「栄え」には、下手をすると「自分自身の栄誉」を求めることになりかねません。
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