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9月1日(日)「十字架の言」説教要旨
  聖句
旧約 「主は言われた、『この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う。それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される。』」  (イザヤ29:13-14)
新約 「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」  (Ⅰコリント1:18-21)
 私たちの言葉や判断には、一つの意味をもち、きわめて単純な言葉というものがあります。たとえば「この机」という言葉は、決して難しくはありません。小さな子供でも、見ればすぐ分かります、「この机」を指すのだということが。けれども、抽象的な言葉などには、二つも三つも別な意味が含意されていることはよくあります。そのどれを指すかは前後の関係を見なければ分かりません。それが「十字架の言」となると、キリストの生涯を知らなければ、その意味は分かりません。信仰者は「十字架」と聞くと、キストの十字架、罪のあがないと考えます。ふつうの人には、それは古代ローマ社会の最悪の死刑の方法だぐらいにしか考えられません。しかし、それは信仰的意味があります。神学的には「刑罰代受説」でキリストが私たちの罪を代わって受けられて、私たちの罪はゆるされるという意味になります。つまり「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」ということになります。
 ではどうして二千年前の刑罰が、それとは反対の「救い」の意味になるのでしょう。それはそのイエスの生涯の背後に、神の御摂理の働きを見なければなりません。「十字架の言」とは、神がその御子をこの世に遣わし、十字架にかけて死に至らしめた、その深い意味であります。この背後にある神のご摂理なしには、十字架はただ死刑の方法でしかありません。
 さてこのように「十字架」を神が人類救済の方法として選ばれた唯一の道であることを理解する時、すべてが表決いたします。ここで「滅びる者」とは、十字架の深い人類救済の意味を知らず、ただその表面の刑罰しか見ない愚かな人びとのことであります。「救われるわれら」とは、その反対に、「十字架を神が選ばれた人類救済の方法」として受け取り、そこに自分自身の深い罪に対する救済を発見する時、そこに大転換が起こるのです。「救われるわれらには、神の力である」と。
 私たちには、信仰者ならふつう「十字架体験」というものがあります。それは不信仰から信仰へと転換する、回心の時であります。その十字架体験において確立した信仰・神学が「十字架の言」であります。それに対して「十字架の言葉」は、十字架に関してのおしゃべりに過ぎません。
 十字架における大切な道、そこでは、十字架は二つの道を選ばせる分かれ目になります。あなたそのどちらかを決断しなくてはなりません。十字架の救いを信じてキリストの道を進むのか、それとも十字架の表面だけをとって滅びの道を進むのかであります。この二つに分かれることが、大切な要めであります。これなしに十字架はもはや十字架ではありません。十字架は、まさに「十字路」です。右へ行くか、左に行くか、それとも真っすぐか、あなたは選択しなくてはなりません。私たちの人生には、ただある規定の道をただ走ればよい場合もあります。しかし、同時に私たちは選択を迫られる場合に来ることがあります。十字架は、まさにその選択を迫る目じるしです。しかもその選択は、結果がどちらでもたいして変わりない程度の差ではありません。滅びるか、救われるかの一大相違です。ではどうして十字架は、そのような選択の岐路なのでしょうか。それは私たち罪から逃れる道は十字架以外にないからです。しかし、不思議なことに、私たちに救いか滅びかをせまる十字架は、同時に私たちに重大なことを教えてくれます。十字架は神が与えた恵みの道でもあるということを教えるのです。
 たとえばある人の人生を考えてみましょう。人生において仕事や学業やお金の心配以外に、もっと基本的な根本的な課題があります。それはハムレットのように、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という、その生き死にとは肉体的生理的生命のことではありません。それは永遠の生命に関係しています。そしてまた、そこにおいて、私たちは自分の罪の問題で悩むのです。このような深い人生の課題の中で、十字架は救いか滅びかの決断の岐路になるのです。
 「『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある、知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった」。その十字架という岐路にさしかかった時、人間の賢い知識は役に立ちません。なぜなら、人間の知識というものは、概してある対象を眺め品定めをするものだからです。したがってふつう知識というものは、外側から見るに過ぎません。真にものの本質に迫るには、不十分です。ましてや「十字架」という、私たちの人生の決定的な課題においては、単に外側から見る知識では不十分です。より深い洞察が必要です。信仰の言葉で言えば、そこには聖霊の導きが必要です。私たちのふつうの知識がひっくりかえされて、神の叡知のようなものが必要になってきます。表面のわたしが死んで、新しいわたしが生まれるような新生を経験しなければなりません。
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