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9月15日(日)「神の召し」説教要旨
  聖句
旧約 「わたしはまた主の言われる声を聞いた、『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。その時わたしは言った、『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』。」  (イザヤ6:8)
新約 「兄弟たちよ、あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それなのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。」  (Ⅰコリント1:26-31)
 「召し」という言葉は、ふつう日常生活では、あまり使わない言葉です。英語ではcallingという言葉が使われます。それはcall(呼ぶ)という動詞からきています。ドイツ語でもBeruf(召し、使命)はrufen(呼ぶ)という動詞から来ています。昔から「殿様のお召し」とか、「天皇のお召し」とか、偉い人から呼ばれることを「召し」と言います。聖書では、「召し」は神様からの召しです。神様から一つの使命・仕事を与えられることを「神の召し」と言います。教会では、「召命(しょうめい)」(calling, Beruf)です。ドイツ語のベルーフという言葉は、「呼ばれること、召し、召命」と訳されますが、マルチン・ルターが宗教改革にあたって、これまでの「召し、召命」ということを新しい意味で使いました。これまでカトリック教会が、ただ聖職に召されること、つまり神父さんになることにだけ、「召し、召命」という言葉を使っていましたが、それが宗教改革を通して、ルターが、召命(ベルーフ)という言葉を、聖職に関してだけでなく、一般にどの職業につくにも、神の召しがあると考えて、聖職の区別はなく、すべての職業に関してベルーフという言葉をつかいました。そのため、今日、ドイツ語では「ベルーフ」というと、召命のことだけでなく、一般ふつうに職業のことを指すようになり、聖なる意味あいはなくなりました。
 今日の新約聖書の箇所でこう言われています。
 「兄弟たちよ、あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない」。「あなたがたが召された時」とは、一般に「キリスト者となること」、あるいは「洗礼を受ける時のこと」を指しているように思えます。そこには非常に驚くべきことが書かれています。「人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない」。「知識・権力・身分」、この世ではこの三つの基準ですべてが計られます。しかし、信仰の世界では、それらはあまり問題になりません。むしろ地上的には、見劣りのする身分の低い者たちばかりでした。事実、原始キリスト教では、多少身分の高い者もいたでしょうが、それは極めて少数でした。信仰の世界では、この地上で問題になること貴ばれることは、少しも取り上げられませんでした。「キリストにある」ということは、「神によってのみある」ことで、その時、地上的上下、貴賎、貧富は問題になりませんでした。つまり、「キリストを信じる」ということは、この世の価値観をすべてひっくりかえしてしまうのです。このひっくりかえりが起こるのが信仰にほかなりません。
 「召された」、「神に召された」ということは、このような地上的価値観の大変革をもたらすのです。「それなのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それはどんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」。ここでは、ただ「賢くなくてもよい、弱くてもよい」と言っているだけでなく、もっと積極的に「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び」と、むしろ、その弱さ、愚かさの中に、特別な意味をこめているようにさえ見える表現で示しています。この価値の大変革、それが信仰であります。そこでは「賢くなくてもよい、弱くてもよい」と言っているだけでなく、むしろ、その「弱さ、愚かさ」に積極的意味を認めているような言い方です。ここに大切な点があります。
 パウロは言います、「この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それはどんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」。神はあえて、つまり「わざわざ」、「特別に」、弱い者、低い者をあえて選ばれたのです。「まあ弱くてもいいから入りなさい」という許容ではなく、むしろ積極的に「弱い人、愚かな人」、優先的にお入りなさいと言われるのです。ここに神の優先的恵みがあるのではないでしょうか。この神の「優先的恵み」こそが、聖書で言う「神の恩寵」であります。
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