9月22日(日)「霊と力の証明」説教要旨

           聖句
旧約
 「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。」  (ヨエル2:28-29)

新約
 「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」  (Ⅰコリント2:1-5)

  「わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった」。外的説明は、私たちの救いの意味は何も語っていません。「十字架の言葉は滅びる者には愚かなれど、救われるわれらには神の力である」(Ⅰコリント1:18)。私たちはここで救いのために十字架の本質に迫らねばなりません。コリントはギリシアの有数な文化都市、パウロは「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」と言っています。しかし、このコリントでは迫害も多くありましたが、同時に、神のみ声を聞きました、「恐れるな、語りづけよ。黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」(使徒行伝18:9-10)と。ふつう私たちは日常の生活や仕事をする時、この神の導きを感ずることはまれです。しかし、仕事がうまく行かず、失敗した時、初めて聖書の言葉に目が開かれるのではないでしょうか。「スイスは人間の混乱と神の摂理によって導かれている」とある通り、人間の混乱の所に、神の摂理、神の導きがあるのです。これに目が開かれる時、新しい局面を見ることができます。それが「霊と力との証明」にほかなりません。力だけなら、物事を破壊させることに役立つことが多いでしょう。物事を建設する力は、「霊と力との証明」によるものです。

  ここでは「巧みな知恵の言葉」に対するものが、「霊と力の証明」です。知識は客観的に物事を説明します。しかし、力はそれとは別です。「ああよく分かりました」と理解はできても、それから力が出てくるかは、全然別なことです。しかし、ここではその力に「霊」が加わります。「霊と力の証明」です。聖書では聖霊は私たちの側のこととしては、祈りに結びついています。聖霊をいただくには、あつく熱心に祈る以外の方法はありません。弟子たちも、イエス昇天の時、どうしてよいか分からず、ただ二階座敷で祈りました。そしてペンコステの日、聖霊が火のように下りました。これほど激しい聖霊経験でなくとも、それぞれ個人には、それにふさわしい聖霊経験を神さまは用意してくださいます。

  パウロが聖霊を受けた時、「弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」と記しています。私たちが聖霊を受けるに、力強い条件は一切不要なのです。ただ一筋の上よりの神の導き、それだけが必要なのです。神の導きなら、私はただむなしくなって祈るよりほかにないでしょう。「ただ神により頼め、すべてを上から期待せよ」。とすれば誰でも、聖霊を受けるのにふさわしくない人などいません。祈りの姿勢さえあれば、聖霊はそこに下ります。「弱い」、「恐れ」も、聖霊を受けるのに不利な状況ではありません。聖霊はそれら一切を越えて来ます。「それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」とあります。「本当の説得は、雄弁ではなく、神の御霊の力である」。それはあたかも言葉において神が行為するとでも言いましょうか、いやその人の言葉と行為の中で、生ける神が行動されるのです。たとえば下手な教師や親は、やたらに言葉で説得しようとします。すると一オクターヴも二オクターヴも、調子が高くなり、大声を出します。しかし、こうした大声の説得法は、ほとんど効果がありません。たった一人の子供を動かすにも、御霊と力の証明が必要です。そこに神が働いていなければ、すべては無駄な大声です。よく「中身のない茶碗ほど大きな音がする」と言うではありませんか。パウロはこの知識はあるが風紀の悪いギリシアの町コリントで、ギリシア的知識があればあるほど、教会の中で、論争や分争が起こって手がつけられなくなることを経験いたしました。そこで恐れに満ち、不安を感じた中で、不思議な神の導きを受け、「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」ことを知り、「訥弁」の中にある「神の雄弁」を学んだのです。
   


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