9月29日(日)「円熟した神の知恵」説教要旨

           聖句
旧約
 「それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない。知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。知恵の初めはこれである、知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、悟りを得よ。」  (箴言4:5-7)

新約
 「しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がいまだ見ず、耳がいまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものを極め、神の深みまでもきわめるのだからである。」  (Ⅰコリント2:6-10)

  「神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった」と言ったパウロを、私たちは「知識否定論者」と考えがちです。しかし、パウロが知識を否定しているかに見える箇所と共に、「わたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である」と語っています。するとパウロが否定する知恵もあるが、他方パウロが肯定する知恵もあることになります。パウロが否定するのは「この世の知恵」、「世の支配者たちの知恵」です。他方パウロが肯定する知恵は、「隠された奥義としての神の知恵」であります。

  もちろん今ここで知恵とか知識と言っているのは、今日の自然科学的知識とは違います。彼の時代、今日でいう自然科学などありません。パウロに問題になのは、聖書でいう神の認識についてで、いわば「信仰的知識」であります。信仰にも知識の面はあります。ハイデルベルクの信仰問答には、「まことの信仰は、神がご自身の御言葉において私たちに啓示されたことを、みなまこととする確かな認識だけではなく、また聖霊が福音によって私たちの中に起こしてくださる心からの信頼です」とあります。福音信仰には、信頼と共に「認識」の面があるのです。この点、俗に言う「鰯の頭も信心から」とは全く違います。アンセルムスという古代の神学者は、「信んぜんがために知らず、知らんがために、われ信ず」と言いました。「信んぜんがために知る」とは、信仰の前に知識があって、その知識を積み上げて行って「信仰」に達するという考えでしょう。この考えをアンセルムスは否定します。知識を積み上げて行っても、それは信仰にはならない、どこかで自己否定し飛躍しなくてはなりません。

  「知らんがために、われ信ず」とは、信仰の前提に知識があるのでなく、信仰は正しい認識を目指していることを言っているのです。今日の聖句で言えば「円熟している者の知恵」です。パウロは知識について、きわめて肯定的に語っているのです。あるいはこう言ってもよいでしょう、「知識のない信仰は暗く、信仰のない知識は基礎を欠いている」と。信仰は知識の到達点ではなく、前提です。聖書で問題なのは「世の知識、科学的知識」ではありません。「信仰の知識」です。信仰は「知」と無関係ではありません。信仰に知がないなら「鰯の頭も信心から」と同じになります。「知識に裏打ちされた信仰」が大切です。自然科学にも前提がありますが、信仰にも前提があります。信仰の知識の前提とは何でしょうか。それは神の「啓示」であります。もしイエス・キリストにおける神の啓示がなければ、信仰は成り立ちません。そして私たちにこの啓示が認識可能でなければ、信仰は成り立ちません。その啓示認識可能性は、啓示を受ける時、同時に私たちに与えられるものです。その証拠に、今日の聖句には「聖書に書いてあるとおり、『目がいまだ見ず、耳がいまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものを極め、神の深みまでもきわめるものだからである」とあります。ここには私たちの啓示認識に関して、二つのことが記されています。1 啓示は私たちがこれまで「目がいまだ見ず、耳がいまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。2 それは啓示と同時に与えられた神認識の可能性であること、この二つです。

  「それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」。神の啓示もまた、信仰的知をもっています。啓示にも論理があり、知的面があります。なければその啓示は、「鰯の頭の信心」となってしまいます。この啓示にも知識があるのです。それが、上に記された聖書の言葉です。「わたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである」。
   


Copyright(c)2013 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.