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10月6日(日)「御霊の賜物」説教要旨
  聖句
旧約 「人の魂は主のともしびであり、人の心の奥を探る。」  (箴言20:27)
新約 「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか』。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」  (Ⅰコリント2:11-16)
 これまで「知識と信仰」という問題を考えてきました。結論としてはアウグスチヌスの言う「知識→信仰→知識」と、信仰をはさんで前後に知識があります。信仰に至る前の「予備知識」のようなものと、「信じて後、知る」、深い信仰の知識、「霊的知識」のようなものがある、それが結論でした。しかし、「信仰と知識」という図式で考えると、抜け落ちてくるものがあります。それは「霊、聖霊」であります。そこでコリント書では、「知識・信仰」の次に、「霊」を問題にします。「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」。霊による認識という、より一層高度な「知識、認識」を問題にします。
 ここには、 人間の思い-人間の霊
神の思い-神の霊
この二つの関係が並行して出てきます。これまでのところを復習してみましょう。
1 神はいまだ見も聞きもしないことを、人の心に備えられた。
2 それを神が御霊によってわたしたちに啓示してくださった。
3 今私たちは神の認識において、神の霊によって神の啓示を認識する以外ない。生まれながらの自然の人は、決して神の啓示を認識できない。
ではどうすればよいのか。それは神の霊をいただく、霊的認識以外にない。こう結論に達します。では私たちに神の啓示を認識させる、その霊とは何でしょうか。
 人間の思いすら、人間の霊による以外に認識されないとすれば、まして神の啓示を認識するのに、神の霊をいただく以外にないことは明かでしょう。これを「霊的認識」と申します。問題は十字架の救いのことから出発します(8-9節)。十字架の救い、それはイエス・キリストが私たちの罪を十字架に背負って、そのあがないによって、私たちは救われる(キリスト刑罰代受説)のであります。キリスト贖罪論とも言います。「贖罪」とは「罪のあがない」のことです。自分がイエス・キリストによって救われたと信じる人は、みなこの十字架による「罪のあがない」を信じているはずであります。「キリスト刑罰代受説」が、その救済論の中心であります。「十字架による救い」、それはだれも、「この知恵を知っていた者は、いなかった」しかし、神は見たことも聞いたこともない、このことを愛する者たちに啓示を通して、そして聖霊によって知らせたのであります。そこには啓示による認識と共に、聖霊による告知がなければなりません。十字架の深い意味を知るには自然人では駄目、「生まれながらの人は、この神の霊の賜物を受けいれない」(14節)から。そこに霊による再生がなくてはならない。そして人は、自然人から→霊の人へと再生しなくてはなりません。
 キリストの十字架に出会ったこと、それだけでは十分でありません。さらに聖霊による認識へと進まなくてはなりません。キリストならある程度分かる、しかし、聖霊となると雲をつかむようなもので、全く得体が知れない、こう嘆くのではないでしょうか。ヨハネ福音書で、イエスはたずねてきたニコデモに言いました、「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(3:6-8)と。
 霊は風のように捕らえ所がありません。しかし、風ならまだ実体があり、肌で感じたり、音を聞いたりすることはできます。ところが、霊となると、肌で感じたり、音を聞いたりすることもできません。聖霊を知るには、聖霊を受けなければなりません。聖霊を知る認識根拠もまた聖霊であります。では私たちはどうしたらよいのか、前に言ったように、私たちが聖霊に対してする唯一のこと、それはただ祈るのみであります。「主よ、わたしに聖霊を送ってください」と。皆さんあのペンテコステの記事を思い起こしてください。弟子たちは、イエスが天に昇ってしまったので、どうしようもなく、エルサレムのとある二階座敷に上って、一同心を一つにしてひたすら祈りました。数名か十数名か知れませんが。1:15に百二十名ばかりとあるから、もっと多かったかも知れません。その人たちが「心を合わせて」、「ひたすら」祈ったのです。一致と熱心です。
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