10月27日(日)「神のもの」説教要旨

           聖句
旧約
 「もろもろの国民を懲らす者は、罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。主は人の思いのむなしいことを知られる。主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人は幸いです。」  (詩編94:10-12)

新約
 「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。『神は、知者たちをその悪知恵によって捕える』と書いてあり、さらにまた、『主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである』と書いてある。だから、だれも人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」  (Ⅰコリント3:16-23)

  私たちの中には、自分を誇る人、自信家で自己顕示欲の強い人がいます。しかし、その反面、自信のない人、劣等感に陥っているような人もいます。この二種類の一見反対に見える人びとは、実はいずれも自我の強さから来ているのです。自我が、自分を出そうと外向きに働けば、その人は、自己確信の強い自信家になります。しかし、反対に内向きに働けば、その人は、劣等感に陥ります。前に「思い煩いは傲慢です」と言う説教をしたことがあります。劣等感や自信のなさも、一種の傲慢にほかなりません。つまり高くなる傲慢と低く見せる傲慢とが存在するのです。しかし、ここでは「誰も人間を誇ってはならない」とあります。普通この世でも「傲慢はいけない」という倫理的戒めはあります。しかし、聖書の場合、「誇ったり、威張ったりする傲慢がいけない」と言う、その根拠が違います。この世では、ただ実用的利害の見地から、「傲慢はいけない」と言います。しかし、聖書はそうではありません。

  聖書では、「人間を誇ってはいけない」と言った次に、「すべてはあなたがたのものなのである」とあり、そして「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」となっています。つまり、あなたがたは神様のものだから、自分を誇ってはならないと言うのです。そして私たちが唯一誇ることができるのは神様であり、パウロも「誇るなら十字架を誇ろう」、また「誇るなら自分の弱さを誇ろう」と言っています。

  ですから、パウロが誇らないところの根拠は、神、あるいはキリスト、その十字架にあったのです。十字架によって救われた人間は、一切の誇りを奪われた人間です。借金で首がまわらず、ある人が代わって返してくれたなら、その人には頭が上がらず、自分は借金を返したと言って誇ることはできないでしょう。一切自分の力ではないのですから。私たちも自分の力で罪の償いをしたのでなく、十字架のイエスが、私の罪の借金の身代わりになってくださったのですから、私たちは罪があがなわれたと言って誇るべきものは何もないのです。そうするとすべては、私を救ってくださった十字架のキリストにあるのです。それゆえ私はキリストのものなのです。さらに神のものなのです。

  神のものである時も、「誇り」はあります。しかし、それは自分の力や知恵を誇るのではありません。その「誇り」は、ただ十字架の上にのみあります。この十字架の上にある誇りを失ってはなりません。「誇るべくは、ただ十字架を誇ろう」とパウロが言ったのはそのことです。讃美歌にも「われは誇らん、ただ十字架を、あまつみ国にいる時まで」とあります。もしこの神を誇り、十字架を誇るところの「誇り」まで失ったなら、私たちはすべて無に帰し、何もなくなってしまいます。しかし、そうではありません。私たちが無に帰し、誇るべきところが一切なくなった、その所で、真に誇るべきものが現れるのです。それはその無にすぎない罪の私たちを、その無から救いだしたイエス・キリストの十字架が、それのみが私たちの唯一の救い、そして「誇り」として現れるのです。それが「われは誇らん、ただ十字架を」の真の意味であります。

  そしてこの新しい「誇り」があるからこそ。私たちは新しく生き始めるのです。それが、十字架で救われた者の新しい倫理、行為、生活であります。
   


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