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1月12日(日)「夫と妻」説教要旨
  聖句
旧約 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。」  (創世記1:27-28)
新約 「さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。夫は妻にその分を果たし、妻も同様に夫にその分を果たすべきである。妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。互いに拒んではならない。ただし、合意の上で祈りに専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。次に、未婚者たちとやもめたちとに言うが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。(しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。また夫も妻と離婚してはいけない。そのほかの人々に言う、これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。しかし、もし不信者の方が離れてゆくのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮らさせるために、召されたのである。なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。」  (Ⅰコリント7:1-16)
 創世記に 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された」(1:27)とあります。ここには、人間の根本的姿が描かれています。私たちは、人間は万物の霊長で、そこには動物にはない、理性、霊性があって、そのすぐれた才能が、人間をして他の動物から抜きん出ているものにしていると思いがちでしょう。しかし、聖書は違います。人間のもつ何かある特性が、他の動物よりも優れていた、もちろんそういう面もあるにはあります。しかし、聖書が描くのはそれではありません。人間のもつ特性ではなく、人が男と女に造られている事実、ある意味でこの交わりの事実が、人のもつ神の似像だというのです。「男と女」なら、人は一人で万物の霊長にはなれない訳です。別な言葉で言えば、人が男であり女であることによって、不思議な交わりをもつ、その関係性、交際性に、一人ではもてない、その交わりの中に、不思議な神の似像があるのです。「男と女」という交わりの姿に、つまり愛し愛されるその愛の交わりの中に「神の似像」があるのです。したがって人は一人では、神の似像たりえません。公園のベンチで若い男女が楽しげに語り合うその姿の中に、あるいは手を取り合って、明るい街を男女が歩くその姿の中に、神の不思議な似像があるのです。
 しかし、男女はそれだけではありません。二人は一緒になります。つまり結婚します。そこでは完全に肉体的にも、家庭的にも、社会的にも一つになります。したがって二人は、一人の男として、一人の女として存在しているだけではなく、「一つになる」という行為をともなって初めて夫と妻として生きるのです。そこにはただ場所的に同じ場所にいるというだけはなく、そこに意志が働き、互いに一つになろうとする行為を生み、それが実行されて、晴れて二人は夫婦になるのです。1) まず男女の性別があって、2) そのうちの一人と一人がいて、3) 互いに相手にひかれ、またひきあい、4) 二人の意志が一致して、5) その一致を行動に表し、初めて二人は一つになれます。しかし、それだけでは夫婦は成り立ちません。その5つの行為が、絶えず連続して継続して行って、初めてだれから見ても、本人たち自身も夫婦であると認めるようになるのです。この聖書で言えば、 「男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。夫は妻にその分を果たし、妻も同様に夫にその分を果たすべきである。妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。互いに拒んではならない」。ここに言われていることが、実現して初めて、夫婦生活ができ、さらにそれが継続して、立派な夫婦関係ができるのです。その「相互」ということがなければ、夫婦は成り立ちません。夫が妻に、妻が夫に、それぞれ同じように相手を考えて行動することによって、夫婦関係が成り立ちます。
  「そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない」。この夫婦関係は、たえずサタンの乗ずる隙をもっています。それが夫婦関係のもつれ、ついに破壊へと発展します。しかし、それを乗り切る道もあります。それは主から命じられている戒めです。「離婚してはいけない」、これはただパウロが時々にだす勧めではありません。主イエス・キリストのご命令です。 「なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また不信者の妻も夫によってきよめられているからである」。この言葉はひときわ素晴らしいものではないでしょうか。私たちのように異教国日本では、夫婦共にキリスト者であることは少ない例です。しかし、ありがたいことに不信者である夫は信仰者の妻によってきよめられており、不信者である妻は信者である夫によってきよめられているのであります。そこには、すべての人の罪を負われたイエス・キリストの十字架のあがないがあるのであります。
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