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1月19日(日)「分に応じ」説教要旨
  聖句
旧約 「助けあう兄弟は堅固な城のようだ、しかし争いは、やぐらの貫の木のようだ。人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。妻を得る者は、良き物を得る、かつ主から恵みを与えられる。貧しい者は、あわれみを請い、富める者は、はげしい答をする。世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もあす。」  (箴言18:19-24)
新約 「ただ、各自は、主から賜った分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。これが、すべての教会に対してわたしの命じるところである。召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうとしないがよい。また、召されたとき割礼を受けていなかったら、割礼を受けようとしないがよい。割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。兄弟たちよ。各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである。」  (Ⅰコリント7:17-24)
 「人の奴隷となってはいけない」。しかし、さらに言うなら、「物や金の奴隷になってはいけない」し,「名誉や地位の奴隷になってはいけない」ではないでしょうか。現代社会は自由な世界でありながら、「物、金、名誉、地位の奴隷」になっているのではないでしょうか。とすれば私たちは自由を望みながら、互いに奴隷的社会を築いていると言えなくもありません。
 現代の自由社会の自由は、主に「・・・からの自由」で、「・・・への自由」が欠けています。「・・・からの自由」とは、「差別からの自由」、「貧困からの自由」など、不自由な状況から脱し自由になる意味をもっています。そして今日「自由、自由」と騒いでいるのは、すべてが「・・・からの自由」ばかりです。「・・・からの自由」が達成された時、では「どこへ」行くのかが問題です。今、近代的な都会人の生活は、封建的なものが払拭されて、かなり自由なものになりました。けれども、まだ問題が残ります。それが「・・・への自由」です。家庭からも、家柄からも結婚からも自由になったと称して、皆いつのまにか、「欲望という名の電車」に乗っているように思います。ヘーゲルという哲学者は、近代社会は、「欲望の体系」だと申しました。「家庭からも、家族関係からも自由だ」と称しながら、近代の「欲望の体系」は、家庭を崩壊させ、個人主義の世界を作りました。個人は自由ですが、同時に愛が失われ、都市の人びとは皆孤独です。そこで私たちには「への自由」が必要です。一体何のために自由になるのでしょう。イエス・キリストが、この罪深い私たちを貴い高価なご自身のいのちの値をもって買い取ってくださいました。この神の生きた愛のゆえに、私たちは自由になり、人格として貴ばれるようになったのです。
 さてパウロはここで、「ただ各自は、主から賜った分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである」と、一見保守的に見える言葉をはいています。今ある状態にとどまっていなさいと、消極的なことを言っているように見えます。しかし、そうではありません。同時に、「しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない」と言っています。パウロは信仰者として、自由とか奴隷ということを、決して下から、地上の社会的、今ある状況から見ていません。むしろ神と神への信仰から見ています。
 「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない」、この最後の言葉が鍵であります。つまり「代価」キリストの十字架の血の代価で買い取られた者だというのです。もちろん世の奴隷のようにお金で買い取られたのではありません。神の子の貴いいのちの代価をもって、買い取られたのです。「十字架の血にきよめぬれば、来よ、とのみ声をわれは聞けり。主よ、われは今ぞ行く、十字架の血にてきよめたまえ」と、賛美歌にあるように、十字架の血によって、罪ゆるされ、きよめられたのです。洗礼の水は、十字架の血を意味します。キリスト者は、この血によってきよめられたのです。それゆえ人の奴隷となることはできないのです。なぜなら、私たちはイエス・キリストのものとなったからです。
 このキリストにある自由は、何ものにも換えがたいものです。なぜなら、それは私たちを自由にした後、さらに私たちの生きる意味を教えるからです。その意味とはイエス・キリストの十字架の愛であります。今、イエス・キリストによって、その十字架によって自由にされた人間は、さらにそのイエス・キリストの愛に生きるよう導かれているのです。私たちを自由へと解放したイエス・キリストは、同時に解放された自由の生活の生きる原理、生きる意味を与えるのです。それゆえイエス・キリストこそ生の意味であると共に、生の目的でもあるのです。
 したがって「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。兄弟たちよ、各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである」と、救われた人間のその後の姿を明かにしているのであります。それは私たちを解放したイエス・キリストの愛に生きる喜びの生活です。
 外的な名前だけが、新しくなるような改革は、一皮むけば古い保守的体質のままではないでしょうか。「深新会」という音楽の会があると聞きました。それは「新しくなる」ためには、まず「深くなる」ことが必要だと言う意味だそうです。私たちは深いところで、神とつながることによって、新しくならなければなりません。外見的なちょっと見のよさの新しさは、すぐ化けの皮がはがれるのではないでしょうか。「兄弟たちよ、各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである」と言われたように、「召された状況の中で、神の前にいることを自覚し、神のみ旨をおこないなさい」と言われている通りです。
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