2月9日(日)「宣教と労働」説教要旨

           聖句
旧約
 「正しく歩む者は救いを得、曲った道に歩む者は穴に陥る。」   (箴言28:18)

新約
 「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。すなわち、モーセの律法に、『穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない』と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行く過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利をあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。」  (Ⅰコリント9:1-14)

  パウロは自分が、手ずから働いて伝道していると言っています。パウロの職は、天幕作りでした。しかし、そのように自ら働いて自給伝道することは、宣教の本来の姿ではないと主張しています。「いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか」と。しかもそれは聖書に書いてあることだと。だからこれは本来の聖書の言う宣教者の姿ではなく、例外的なことだというのです。「主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを定められたのである」。それにもかかわらず、パウロが自給伝道していることは、まだ異邦人伝道が緒に就いたばかりで、いたしかたないことで、幸い彼は天幕作りという、手に職をもっているから、天幕作りをしながら自給伝道をしていたのです。特に開拓当初のコリントの教会の場合そうだったのでしょう。

  その次にパウロはこのことの聖書的意味を述べています。「わたしはすべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。・・・弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人にはすべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」。福音の自由とは、福音が伝えられるために、この一事のためには、どんなことでもすることにあります。それは人を救うためには、何でもすることを意味します。パウロは福音の自由とは、その福音が伝えられることが、主目的であって、その主目的の達成のためには、他のことはすべて、それに奉仕するのです。そのため、「働き人が報酬を得る」という、聖書的原則を曲げても、その聖書の真理が伝わる主目的のために、一切を放棄するのであります。

  私たちはここに原則固執者の間違いを、福音の自由の真理から学ぶのであります。聖書の真理は、その一字一句を固執して守ることではなく、福音の真理十字架のキリストの愛が生きるために、他の一切をこの一事に集中させることにあります。矛盾したことですが、「私たちは福音の文字づらの意味を乗り越えて進むほど、福音の真理に生きることが大切なのです」。その中心は、イエス・キリストの十字架の愛の真理であります。イエス・キリストは十字架の愛の真理が生きるために、あえて律法を犯しました。そのため律法に固執する律法学者と衝突してまで、福音の真理を貫きました。この十字架の愛の真理は、割りの合わない、福音の無代価の愚かさの真理であります。キング牧師は、公民権運動の中で、「目には目を、歯には歯を」という、「取り前、やり前」の応報の真理を乗り越えて、非暴力抵抗の運動を貫きました。彼は言います、「この犠牲が、病めるこの社会に救いをもたらす」と。今日でもそうではないでしょうか。
   


Copyright(c)2014 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.