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4月13日(日)「十字架の救い」説教要旨
  聖句
旧約 「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道を示す。彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。」   (イザヤ42:1-4)
新約 「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやったことのむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』。」  (ルカ23:39-43)
 イエスの十字架を真ん中にして、二つの十字架があります。これは私たちの姿を表しています。十字架によってイエスから離れる者、その反対に十字架をとおしてイエスを信じる者であります。十字架は私たちに二つの別れ道を示しております。これは特に才能の違いではありません。またからだのすぐれているいないの違いでもありません。もちろんお金のあるなしに関係もありません。この二つの違いは、ただそこにある十字架を信じるか信じないかの違いです。十字架を信じるには、ある意味で愚かにならねばなりません。ローマの当時の死刑囚の中に、私たちの救いがあることなど、常識があれば信じるどころか、まともに扱うことさえできません。「愚かさ」が必要です。
 しかし、その愚かさとは、知識のあるなし才能のあるなしを言っているのではありません。たとえば、利害得失にうとくて損ばかりしている人は、ある意味で「愚か」でしょう。皆「あの人は愚かだ」と言います。
 十字架とは、いわば当時の死刑の仕方で、その最低のものです。十字架にかけられるのは、極悪人で、世間で最低の人です。イエスは、最低の刑罰である十字架につけられたのです。心ある人は、たといその生涯に感心した人でも、その最後には落胆し、イエスから離れたのではないでしょうか。
 しかし、この最悪最低の刑罰に、罪ない神の子がかかった時、それは最高の救いのしるしとなったのです。その証拠に、その後の二千年の歴史で、この十字架は救いのしるしとして人びとの間に定着してゆきました。今日、たとい信仰のない人でも、十字架がいけないとは言わないでしょう。
 確かにに十字架は滅びる人、つまり信じない人には愚かです。しかし、それを信じる人にとって、神の子が自分自身を犠牲にして、私たち罪人のためにあがないをしてくださった、大きなしるしであります。ここに二人の人が出てきます。人類の代表者のようなものです。つまり十字架を境にして右にいる人は、「イエスをののしってあなたは救い主ではないか、自分を救い十字架からおりて、ついでに私たちも救ってください」、信じない人の代表者はそう言って、イエスをののしりました。十字架から降りられないのなら、救い主ではない。そんな馬鹿な救い主などこの世にあるはずがないと考えたのでしょう。しかし、左にいるもう人は言いました、「私たちはやったこの報いを受けているのに、この人は何も悪いことはしていないのだ」と、けれどももう一つのことを言いました、それはイエスに向かって「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と申しました。つまりイエスに救いを求めたのです。それは自分が十字架にかけられて、必死の願いだったに違いありません。しかし、それを聞いたイエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と。つまりイエスと共に天国に入ることを約束しました。しかも、将来ではありません。「きょう」です。たった今です。私たちは考えます、今と言っても、天国が到来するには時間がある。自分が死んでも、この世は存続している、したがって天国が来るのは、この世の時が終了した後だと。確かに地上的時間の計算からすればそうかも知れません。しかし、天国の計算は違います。永遠は今ここです。
 その今ここに何があるでしょう。弟子たちがみな逃げてしまった時、イエスを主と告白する人が、だれもいないその時、ただ十字架だけで信じた人がここにいました。多くの人は、十字架の後、イエスが復活したので信じたのです。しかし、ここにただ一人、イエスの十字架だけで信じた人がいました。しかもたった一人だけです。ある意味でこの人は最初の告白者ではないでしょうか。バルメン宣言は、ヒットラーの脅威の激しかったころ、ドイツのバルメンのゲンルケ教会で出されました。ヒットラーが救世主ではなく、イエス・キリストこそが真の救い主であることを告白したものです。もし平常の時、このバルメン宣言を見たら誰しも、こんなことは当たり前ではないかと不思議がるのではないでしょうか。しかし、今ヒットラーの権力がドイツ国中ひろまっている時、ヒットラーではなく、イエス・キリストこそが救い主だと告白することは相当勇気が言ったのではないでしょうか。今ならだれも日本の天皇は神ではなくただの人だといっても当たり前でしょう。しかし、戦争中、誰かが日本の国で、天皇は神でなく人だと言えば、その人は命の危険を覚悟しなくてはならないでしょう。周り中が天皇は神だ現人神だと信じ切っている時、たとい信じ切っていなくとも、そのことが建前になっている世の中で、ただ一人だけ、いや天皇は神でなく人だと言えば、その人は命の危険を犯してそのことを告白しなくてはならないでしょう。告白とは状況の中でなされます。すべての人が間違っているなかで真実を告白することは勇気のいることです。
 さてこの告白した犯罪人は、かなり勇気がいったでしょう。なぜなら多くの人が、いやかなりのひとが、ほとんどすべての人がイエスは犯罪人だと信じきっているその時、このひとは救い主だということは勇気のいることです。しかも十字架にかかって今死にそうになっている人が、ほかでもなく、人類の救い主だと叫ぶとしたら、それは相当勇気のいることでしょう。ですから、この十字架にかけられた犯罪人は、最初の告白者であります。ブルムハルト牧師は、今わのきわの死に行く人に、「しっかりせよ、あと10分で天国に行けるのだ、もう10分であなたは神様に会えるのだ」と言ったそうです。私たちはそういうことが言えますか。
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