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5月25日(日)「愛は高ぶらない」説教要旨
  聖句
旧約 「わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。エフライムよ、わたしは偶像となんの係わりがあろうか。あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る。」   (ホセア14:4-8)
新約 「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」   (Ⅰコリント13:1-13)
 私たちは今から、聖書の中でも最も美しい「愛の賛歌」に移ります。前の十二章の終わりに、「だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう」とあります。つまり十三章で述べる愛の賛歌は、十二章で述べてきた「霊の賜物」のうち最もすぐれたものなのです。つまり「愛は霊の賜物のうち最上の最高の賜物」なのです。ふつう私たちは、愛というと、私たち人間の中にある「資質、性質」のように考えませんか。しかし、それは聖書の示す愛ではありません。
 聖書の原語のギリシア語では、愛についていろいろな言葉があります。フィリアというのは、「友情」のような愛を示します。エロースは聖書には出てきませんが、ギリシア語では、男女関係の愛情を表す言葉に主として用いられます。アガペーは聖書特有の言葉で、一般にもありますが、聖書で用いられるような、高度の意味あいはありません。聖書では「神の愛」、キリストの無私の愛が、アガペーとして用いられます。この愛を中心に説いた『アガペーとエロース』という本も書かれているほどです。聖書のいうアガペーは、友情のようなフィリアでもなく、恋愛のようなエロースでもなく、いわば無私の隣人愛のような、あの「良きサマリア人のたとえ」に出てくる、親切な無私の愛の深さを表しています。
 そして聖書の示すアガペーの愛の美しさを表したものの中で、この第一コリント書十三章におけるほど、みごとに描かれているものはありません。しかし、この章で描く美しい愛の一つ一つの項目に入る前に、Ⅰヨハネ四章にある愛の姿を見てみましょう。「愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明かにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(Ⅰヨハネ4:7-10)。これが聖書が示す神の愛の真のすがたにほかなりません。そこでは「わたし中心の愛」はありません。すべて「神中心」です。しかも神は御子イエス・キリストを通して、私たちと交わりをもち、キリストを通して愛の業を完成なさいます。
 では第一コリント書の十三章で描く美しい清い愛とはどのようなものでしょうか。まず「愛は寛容であり、情け深い」これが第一です。これは肯定形で描かれています。そして次には、愛の姿が否定形で述べられます。愛は「ねたむことをしない、愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない、不義を喜ばないで」、ここには八つの否定形で愛の真の姿が描かれています。次いでまた肯定形にもどります、「真理を喜ぶ、そしてすべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と。そしてすたれるものの中で、つまり「預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう」、その理由は、それらは部分的なもので、全体を包むものではないからです。「なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない」からであります。全きものとは、信仰と希望と愛の三つであります。しかもその三つの中で「愛が最も大いなるもの」であります。
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