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6月1日(日)「愛を求めなさい」説教要旨
  聖句
旧約 「その時ふたりの者が、宿営にとどまっていたが、ひとりの名はエルダデと言い、ひとりの名はメダデといった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは名をしるされた者であったが、幕屋に行かなかったので、宿営のうちで預言した。時にひとりの若者が走って来て、モーセに告げて言った、『エルダデとメダデとが宿営のうちで預言しています』。若い時からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った、『わが主、モーセよ、彼らをさし止めてください』。モーセは彼に言った、『あなたは、わたしのためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ』。こうしてモーセはイスラエルの長老たちと共に、宿営に引きあげた。」   (民数記11:26-30)
新約 「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。」   (Ⅰコリント14:1-5)
 「愛を追い求めなさい」、そして「霊の賜物を(ことに預言することを)、熱心に求めなさい」。ここでは二つのもの「愛」と「霊の賜物」とを求めることが言われています。しかし、日本語でも「追い求める」と「求める」というように、違って訳しましたが、原語も違っています。まず「愛」は私たちの感覚からすれば、「愛し」、「愛される」と愛は相手との間に起こる相互関係と見られています。確かにそうです、愛は二人の者の間に起こる相互のやりとりにほかなりません。しかし、ここでは、もっと高いところを目指しています。したがって「愛を追い求める」という表現になっています。たとえば、愛しあっていると思っている二人の人がいます。しかし、愛というものは、流動的なもので、いつ変わるか、極端な場合には、愛が憎しみに変わる場合さえあります。俗に「可愛さあまって、憎さ百倍」という言葉すらあります。したがって、愛はたえず「追い求めてゆかなくては」、達成されません。一度達成されたと思っても、また破られることも、ままあります。それは愛にとって決して珍しいことではありません。ですから、「愛を追い求めなさい」と言われていることは、正しい表現です。
 それに対して、「霊の賜物を求める」ことは、ふつうのいろいろな物を求める場合とあまり違いありません。たとえば、日々の生活で、品物を買った時、売り手はその代金を求めるのは、日常に行われている行為です。それと同じように、「霊の賜物を求める」ことも行われるのです。しかし、それと「愛を追い求める」行為とは、完全に違った行為です。私たちは日用品を買い求めるように、「愛を買い求める」ことはできません。なぜなら、愛というものは、デパートで売られている商品ではないからです。それは精神的、霊的なものです。信仰・希望・愛と申しますが、これら精神財は、決して売り買いはできないのです。しかし、それを精神的に求めることはできます。とすれば、愛は、精神財として物質的商品とは違い、一段と高いものです。精神的により高度なものですから、品物のように、売り買いできません。したがってそれは高度な精神的な追求、求めの対象です。
 また愛は「追い求める」対象ですが、それを手にいれて所有することはできません。愛は、複数の人々の間にあって、出来事として起こることです。「愛は複数の人の間に行われる出来事としての行為である」と言うことができましょう。
 愛は追い求めることはできますが、完全に個人の所有となることはありません。この点は、信仰でも希望でも同じです、霊的、精神的財は、決して個々人の所有とはならないのです。たとえばある出来事は個々人の間において、起こりなすが、それは個々人の所有とはならないのと同じです。したがって、「愛を追い求める」ことと、「霊の賜物を求める」こととは、次元の違うことです。
 ここで「預言をするために、霊の賜物を求めなさい」と言われています。「預言をする」とは、説教をすること、神の言葉を語ることと同じであります。説教をするには、ただ単に人間的資質や能力では足りません。そこには、上からくる、霊的賜物がなければ、できません。さらに「預言する者は、人に語ってその徳を高め」とあります。私たちの今日の言葉で言えば、「説教するには、人びとを霊的に向上させる」という意味であります。それは三つの使命があります。人に語って「1 その徳を高め、2 彼を励まし 3 慰めるのです。1は、霊的にその人を向上させること、2は、彼に生きる勇気をあたえ、生を生かし活力を与えること、3は、苦難や悲しみのなかで慰められることです。
 この三つは、決して人間的努力や技術、ある方法によって得られるものではありません。確かにある人は、隣人を慰める手立てを心得ているかも知れません。しかし、それだからと言って、その手立てが、いつでもどこでも通用するわけではありません。このような精神的課題は、決して機械的に、あるいは物理的に手段を使って解決するわけには行きません。そこには上よりの霊的道のみが導けるものでしょう。それをいただくには、祈るよりほか仕方がないかも知れません。いや、祈りこそが唯一の手段であります。祈りは、神に求める方法ですから、そこ人間は一切の人間的手段や方法を放擲して、投げ捨てて、ただ神に導いてもらう以外には方法はないでしょう。
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