2014年6月8日(日)ペンテコステ礼拝説教「いのちの御霊」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「その後わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたの息子、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまた、わが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変わる。すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。」   (ヨエル2:28-32)

新約
 「五旬節の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろな他国の言葉で語りだした。」   (使徒行伝2:1-4)

  まず「聖霊はだれに下るのか」と言う問いがあります。聖霊は決して有名人や能力にある人に下るわけではありません。15節に「百二十名ばかりの人々」とあります。この「人々」と言うのは、原語で「オクロス」(民衆とか群衆)と言う、一般の人々の集まりを指します。

  別に名も知られていない、ごく普通の人々であります。この中には確かにイエスの兄弟、母等親戚はいましたが、その他は名も知れない、一般人です。そのうち二十名は親せきや弟子たちとして、残り百名は、全く誰か分かりません。聖霊はそのように、特別な人に下るのではなく、名もない一般の人々に下るのであります。聖霊が下るのに、特別な法則はありません。

  ただ一つ「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろな他国の言葉で語りだした」とありますから、御霊は御言葉とくっついているように思います。このことが大事です。「いろいろ」ですから、そこには多様性があったのです。御霊が下ると、皆が同じことを語り、均一化されて、個性がなくなるのではありません。逆です。御霊が下ると、逆に一人ひとりの個性が生かされて、一人びとりが生きて輝き明るく照らされてくるのです。御霊は全体主義的ではりません。それは全体を包みますが、一人びとりが明らかにされる形でのみ、全体が明るく照らされます。わたし自身の聖霊経験もそうでした。決して個性が失われることはありませんでした。にもかかわらず、そこにはいにしえの使徒たちに下った御霊と同じ聖霊、つまり同一性があります。聖霊そのものが変わるわけではありません。神さまは同じです。しかし、その表れは、それぞれに応じてさまざまで個性的です。けれども、そこに百二十名ばかりいても、混乱したり、ごたごたしたりすることはありません。聖霊が働く時、全体が照らし出されると共に、個々の一人びとりがはっきりと生かされてくるのです。全体と個が、生き生きと調和して、新しい出来事を起こすのです。それが聖霊降臨の出来事の本質です。それは言語と関係しますから、言葉とその語る意味内容がはっきりとしています。ぼんやりとかすむのではなく、かえって、生き生きとして意味も内容もはっきりしてくるのです。
   


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