6月15日(日)「啓示と知識」説教要旨

           聖句
旧約
 「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。」   (イザヤ58:1-2)

新約
 「だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか。それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることが分かるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である。だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。
 このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。感謝するのは結構だが、それで、ほかの人の徳を高めることにはならない。わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい。 」   (Ⅰコリント14:6-19)

  異言というのは、霊的高揚状態におちいって、あたりの人に分からない、自分だけが分かる言葉を語ることです。何年か前ある教会に行った時、そこの礼拝の中で、一人の信徒が立ち上がって、わけの分からないことを口走っていたのに出会い、これが異言かと思いました。多分私以外の列席の人びとも、同じように、何も分からなかったのだと思います。いや本人は分かっているのかも知れませんが、厳密に言語で説明することは難しいのだと思いました。パウロ自身はそのような異言をだれよりも多く語れる人でした(18節)。「しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい」と言っています。教会では自分を誇ることは愚かなこととして禁じられています。他人の徳を立てることが願わしいことです。「徳を立てる」とは、原語では「形成される」ことを意味します。何が形成されるかと言うと、「信仰的な内容が形成される」ことを意味します。

  信仰の証しと言っても、ただ注解書を読んでまるで学生のリポートのような話をする人がいます。それはある意味で、人びとにとって異言になっていませんか、それは何を言っているか、ふつうの信者には分からないのです。分からなければ、その言葉は、その聞いた人にとって「一つの異言」でしかありません。信仰者の語りは、隣人を励まし慰め、力づけるような言葉でなければなりません。そうでなければ、語ったことは、チンプンカンプンで、異言としかとれません。

  ある人は言いました、「わたしは、わたしたちすべてが、外に出て、わたしたちの苦悩を白日の下にさらけ出し、みんなが一体となってその苦悩を泣き悲しみ、天に向かって叫ぶなら、わたしたちの多くの問題は解決するだろうと確信しています。天はわたしたちの願いを聞いてくださるでありましょう。聖堂のもつ最大の神聖さは、人びとが他者と共に涙を流しに行くところだということです。運命に打ちひしがれた人びとが合唱する『主よ、憐れみたまえ』は、ついに世界を揺るがし、その力を発揮するでしょう」。

  「啓示か知識か預言か教え」(6節)と四つが並べられています。「啓示」というのは、イエス・キリストが地上に来られた事実かその事実が個人に示される事態を指すでしょう。「知識」というのは「神学的知」を意味します、「信仰の知的理解」です。「預言」は前にも言った通り新約聖書の時代、私たちがふつう「説教」とか「信仰の証し」と言っているものに当たるでしょう。「教え」は私たちの言葉で言えば「教理」に当たるでしょう。整理してみましょう。
 1 啓示-キリスト到来の事実、もしくはその事実の信仰的認識
 2 知識-神学的知、信仰の知的理解
 3 預言-説教もしくは信仰の証し
 4 教え-教理

  これらは共通して、「言葉」により「知性」で理解できるものとして語られたり、書かれたりするものであります。パウロは「異言」を否定していません、それどころが、自分はだれよりも多く異言を語れると言っています。それにもかかわらず、「しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい」と言っています。そこにおける違いは何でしょうか。「教会の徳を高める」ことにあります。上に述べた四つは少し学べば誰でも分かるものです。しかし、異言は、ほとんどの人が理解できない言葉です。それは決して教会の徳を高めはしません。つまり13章でのべた「信仰・希望・愛」の愛に反するものです。この三つの中で、愛は最も大いなるものだと、前章の最後でパウロ自身述べているところです。愛は上にあげた四つを貫いている信仰生活上最大、最高、最善のものです。これなしには他のすべてはむなしいものに終わるでしょう。

  パウロはこう言っております。「たといわたしが、人々の言葉や御使の言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」。今もし愛とほかのものを天秤にかけたら、それは愛の方に傾くでしょう。愛が一番で最高だからです。
   


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