6月29日(日)「沈黙と信仰」説教要旨

           聖句
旧約
 「主はさきに彼らに言われた、『これが安息だ、疲れた者に安息を与えよ。これが休息だ』と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。それゆえ、主の言葉は彼らに、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少しとなる。これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕らえられるためである。」   (イザヤ28:12-13)

新約
 「兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。律法にこう書いてある、『わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる』。このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく、信者のためのしるしである。もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたが気が変になったと言うだろう。しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、『まことに、神があなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう。
 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである。神は無秩序の神ではなく、平和の神である。
 聖徒たちのすべての教会で行われているように、婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。 」   (Ⅰコリント14:20-40)

  ここで言われていることは、「異言・預言・沈黙」であります。「異言」というのは、普通の人には分からない霊的高揚状態にあって、語る言葉です。それはだれか解く人、つまり解説者がいなければ、一般の人には、全くチンプンカンプンで、何を言っているのか分かりません。「預言」というのは、知性的に分かる言葉で福音の真理を語ることであります。たとえば現在の「説教とか信仰の証し」がそれに当たるでしょう。そして「沈黙」です。今日はこれが問題です。それで説教題も「沈黙と信仰」といたしました。そこでまず初めにピカートというスイスの思想家の『沈黙の世界』を学びましょう。その表題に「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうであろう」とか、「愛のなかには言葉よりも多くの沈黙がある。『黙って、あなたの言葉が聞こえるように」とかすばらしい言葉を記しています。「沈黙は決して消極的なものではない。沈黙とは単に『語らざること』ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものなのである」、「言葉は沈黙から生ずる。実際、言葉はそれ、つまり沈黙の裏面なのだ」。「今日では、言葉は沈黙の世界からはるかに遠ざかってしまっている。言葉はただ騒音から発生し、騒音の中で消えうせて行くだけである」、この言葉は騒音で悩まされている今日の世界、あらゆる騒音で騒がしい町中を考えて見ると、よく分かると思います。

  私たちの中で「沈黙」と言えば、「黙祷」とか「聖餐式」が考えられるでしょう。私たちの礼拝は、賛美歌、祈祷、聖書朗読、説教にしても言語で語るもので、沈黙の正反対です。しかし、その言語で語ることの中にも、「沈黙」の時は必要ではないでしょうか。私たちの礼拝でも最初司会者の指導で、沈黙して自分の罪の懴悔をするところがあります。すると礼拝における賛美歌、祈祷、説教のような「語り」の前に、「黙祷」という沈黙の世界があります。それは大変大事なものであります。なぜなら、私たちが何もしないで、神さまにゆだねるからです。人間の仕事でなく、「神よ、あなたご自身が働いてください」というのが、黙祷、沈黙ではないでしょうか。神の働きなしに、名説教も何ものでしょう。植村正久という人は、明治以来の日本のプロテスタント教会の指導者と目される人です。しかし、彼は非常などもりだったそうです。しかし、聞いた人によると、どもりどもり絞り出すような言葉が、人の胸を打つと言われています。それは「雄弁」ではありません。すると言葉を越えた何ものかであります。「言外の言」いわば沈黙の言葉にほかなりません。

  「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまう」とは、そのことです。たとえば「愛」ということは、決して言葉ではありません。「たといわたしが、人々の言葉や御使の言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである」(Ⅰコリント13:1)とあります。雄弁が人を動かすのではありません。その人の言葉の背後にある「真実」こそが、人を動かすのであります。
   


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