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7月13日(日)「死人はよみがえられないか」説教要旨
  聖句
旧約 「主なる神は言われた、『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」   (創世記3:22-24)
新約 「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。『神は万物を彼の足もとに従わせた』からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。
」   (Ⅰコリント15:12-28)
 「キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったなら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」。パウロの時代すでに「復活などない」という人がいたようです。いつの時代にも、また現代にも「復活を否定する人」は絶えません。彼らは「一度死んだ人間が再び息を吹き返すことなどありえない」というのです。それはまだ十分死んでいない仮死の状態なのだろう。とすればそれは「復活」ではなく、「蘇生」にすぎない。まだ多少生命の残っていたものが、その命を取り戻すことはありえても、完全に死んだ人間が、再び生き返ることなど、決してありえない。ある人にとって、この主張は当然のこと思われるでしょう。
 しかし、この世界とほかにもうひとつ「あの世、新しい世界」が存在することを疑うことはできません。それは証明することではなく、キリストが死んで三日目によみがえった事実を通して、私たちに伝えられている事から、新しい別な世界のあることを信じるのです。キリストは、そのことを確証するために、死人の中からよみがえったのです。キリストの復活は、私たちの姿の先取り、先行にほかなりません。この先に行かれるイエスを信じて、私たち自身の復活をも信じることができます。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。「初穂」とは私たちに先立つ「先行」なのです。
 この前の箇所に「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである」。ここにパウロは、復活を実証するために、復活に事実出会った証人の長い列をあげています。まずその事実は聖書に書いてある、次にケパに現れ、十二使徒、そののち五百人以上の兄弟に現れ、主の兄弟ヤコブに現れ、次いですべての使徒たちに現れ、そしてダマスコ途上で、パウロ自身に現れたのです。このように復活の証人の系列は歴史的事実として厳然として存在するのです。「このように私たちは雲のような多くの証人に囲まれています」(ヘブル12:1)。パウロ自身への現れは、全く奇跡的です。なぜなら、彼はキリスト教の反対者、迫害者として、キリスト者を見つけては牢屋に入れる仕事をして、キリスト教撲滅の急先鋒に立っていたのです。そのキリスト教の反対の急先鋒を、ダマスコでの出来事で一転してキリストの宣教者として立てたのです。それは神ご自身の御業としか考えられません。
 パウロを見れば、キリストは本当に復活して現れたこと、復活は事実であることを信じない訳には行きません。なぜなら、パウロはキリスト教の反対者、迫害者であったのに、それがダマスコ途上での復活のイエス・キリストとの出会いによって、今度は、ただキリストを信じるだけではなく、そのキリストを全世界に宣教して歩く、世界的伝道者になったのです。そうです、新約聖書27巻のうち半分13巻がパウロの手紙であり、さらに使徒行伝の大部分はパウロの伝道旅行から成り立っているのです。パウロを除いては新約聖書は成り立ちません。そのような世界的伝道者は、かつてのキリスト教反対者、迫害者であったのです。そのようなキリスト教反対者が、どうしてキリスト教伝道者になったかと言えば、それはダマスコ途上の出来事、神の上からの聖霊の導きとしか言えない出来事において起こったのです。
 「兄弟たちよ、わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである・・・」。「最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである」。神の教会を迫害した人間が、一変して神の教会の宣教者になったとすれば、それはもはや人間業ではなく、神の上よりの御業としかいえないものでしょう。このようにパウロは変えられたのです。そのように、私たちの中にも同じことが起こる可能性があるのです。神の奇跡、聖霊の御業が起こされることがあるのです。私たちは信じましょう、パウロのことから信じましょう。神の業が起こる時、それは不思議なことが一遍におこるのです。
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