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8月17日(日)「人間の知恵ではなく神の恵み」説教要旨
  聖句
旧約 「主はもろもろの国民の所領をその民に与えて、みわざの力をこれにあらわされた。そのみ手のわざは真実かつ公正であり、すべてのさとしは確かである。これらは世々かぎりなく堅く立ち、真実と正直とをもってなされた。主はその民にあがないを施し、その契約をとこしえに立てられた。そのみ名は聖にして、おそれおおい。主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。」   (詩編111:6-10)
新約 「兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出してくださることを望んでいる。そして、あなたがたもまた祈りをもって、ともどもに、わたしたちを助けてくれるであろう。これは多くの人々の願いによりわたしたちに賜わった恵みについて、多くの人が感謝をささげるようになるためである。
さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではない。それを完全に理解してくれるように、わたしは希望する。すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇りであるように、わたしたちもあなたがたの誇りなのである。」   (Ⅱコリント1:8-14)
 パウロのこの手紙は、神の恵みで貫かれています。パウロは自分自身を語ろうとは思いません。もちろん信仰と言っても自分自身の経験を基としたことですから、自分が出てくることは否めません。しかし、話の中心はパウロ自身ではありません。パウロに注がれた神の恵みが中心であります。しかし、「恵み」と言うと、だれしも恵まれた豊かな状況を想像するかも知れませんが、パウロの場合そうではありません。むしろその正反対の場合が多いのであります。ここでも「兄弟たちよ、わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった」というのであります。それは「艱難」であります。しかも耐えられないほどの苦しみであって、生きる望みをさえ失い、死を期するに至ったのであります。わたしたちは、艱難に会うことはしばしばありますが、死を期するほどの艱難というのは、人生の中でそれほど多くあるものではありません。しかもパウロの場合、極度に耐えられないほど圧迫され、生きる望みをさえ失ったのであります。「生きる望を失うほどの艱難」というのは、私たちの人生でそれほど多くあるわけではありません。
 しかし、パウロはそのような危機の状況の中で、同時に一生に一度あるかないかの神の恵みの経験をしたのです。皆さん、恵みを経験したような時、それは苦しみの真っ只中であることが多いでしょう。ですから、艱難を受ける時、恵みを与えられると確信してよいのです。(教職会の時、一番幸せを感じた時について話し合うことになった時、実は皆が皆そろいもそろって、苦難の経験を語りだしたのです)。そうとしたら何と幸せなことでしょう、苦難を受ける時、その次の瞬間にわたしたちは多大の恵みをうけることを期待できるのですから。パウロはその苦難の将来性を語るのです。「神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出してくださることを望んでいる」。苦難は苦しいだけではなく、将来があると聞いたら、わたしたちは何と肩の重荷を下ろすことでしょう。この人生で希望のないことが、一番悪いのです。しかしそれだけではありません。艱難は、わたしたちに将来に向かって希望を与えるのです。何とすばらしいことではないでしょうか。苦難が希望を来らせるとするならば。
 さらにこの「苦難→希望」は、もっと新しい面にわたしたちを連れて行きます。「わたしたちは、神が今後も救い出してくださることを望んでいる。そして、あなたがたもまた祈りをもって、ともどもに、わたしたちを助けてくれるであろう。これは多くの人々の願いによりわたしたちに賜わった恵みについて、多くの人が感謝をささげるようになるためである」。つまりその将来は、そこに祈りの輪ができるというのです。祈りの助けの輪であります。祈りの共同性と言ってもよいでしょう。わたしたちにはこの祈りの輪が大切なのです。いや最も大切だと言っても過言ではないでしょう。私たちはこの「祈りの共同性」あるいは「祈りの共同体」、それは私たち信仰者であり、ある意味で教会であります。教会ほど祈りの共同体はないでしょう。
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