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8月24日(日)「しかりと否」説教要旨
  聖句
旧約 「主はこう仰せられる、『ヤコブのために喜んで声高く歌い、万国のかしらのために叫び声をあげよ。告げ示し、ほめたたえて言え、「主はその民イスラエルの残りの者を救われた」と。見よ、わたしは彼らを北の国から連れ帰り、彼らを地の果から集める。彼らのうちには、盲人やあしなえ、妊婦、産婦も共にいる。彼らは大きな群れとなって、ここに帰ってくる。彼らは泣き悲しんで帰ってくる。わたしは慰めながら彼らを導き帰る。彼らがつまずかないように、まっすぐな道により、水の流れのそばを通らせる。それは、わたしがイスラエルの父であり、エフライムはわたしの長子だからである。」   (エレミヤ31:7-9)
新約 「この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、まずあなたがたの所に行き、それからそちらを通ってマケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てたのである。この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、わたしの『しかり、しかり』が同時に『否、否』であったのだろうか。神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、『しかり』と同時に、『否』というようなものではない。なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである。だから、わたしたちは、彼によって『アァメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである。
わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、わたしがコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである。わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは、信仰に堅く立っているからである。」   (Ⅱコリント1:15-24)
 「しかり」と「否」というのは、私たちの応答の最も基本的な二つで、いわば「イエース」と「ノー」に対応しています。私たちの問いかけに対する答えは、ふつう「イエース」か「ノー」の二つです。もちろんその中間的な「どちらとも言えない」というのもあるでしょうが、非常にはっきりしているのは、この二つです。ただここに出てくる「イエース」と「ノー」は、私たちの日常の対話のそれではありません。「神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、『しかり』と同時に『否』というようなものではない。なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである。だから、わたしたちは、彼によって『アァメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである」。ここにあるように、ここに出てくる「イエース」と「ノー」は、神からくる「イエース」と「ノー」であります。
 今日の箇所で肝心の部分は、「あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである」。これであります。それはイエス・キリストからくる「しかり」と「否」であります。私たちの地上におけるいろいろなことは、神からくる「しかり」と「否」によって表されます。私たちの地上の出来事ですべてが、この二つに集約されます。
 私たちはふつう、地上の事柄を、人間同士の「イエース」と「ノー」で行っています。生まれたての子供が、初めて言葉を覚えて、非常に早い段階で、「はい」という言葉を覚えます。そして次に「いいえ」です。私の子の場合「ちやく(違う)」と言いました。否定を覚えるのは、第二の段階で、肯定が先でした。難しく言うと、同一性が先にあって、相違性は次に来るのです。肯定が先にあって、否定は次に来るようです。しかし、ちょうど数学でプラスとマイナスを掛けると必ずマイナスになるように、マイナスの力はプラスよりも強いのです。マイナスにプラスを掛けると、そこにいくつプラスがあっても、その括弧の中のプラスは全部マイナスになります。そのように「ノー」の力は強いのです。
 しかし、今ここでは、この「イエース」も「ノー」もすべて、神からくるものです。神の肯定と神の否定です。「神は真実」(18節)とあるように、ここには神の真実が輝いています。神の真実が大前提です。神は真実ですから、この神のイエース(肯定)も神のノー(否定)も成り立つのです。「神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、『しかり』と同時に『否』というようなものではない。なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである」。こう記されています。神がその愛する御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちの救いのために与えてくださった、ここに一切の「ノー(否定)」的状況における、神の「イエース(肯定)」があります。神の子イエス・キリストを信じる現実においては、すべての否定が神の肯定に変えられるのです。それがイエス・キリストの十字架による救いの現実であります。今の言葉で言えば、すべての否定的(ノー)の状況の中で、神のイエース(肯定的)状況が勝利するのです。それこそがイエス・キリストによる救いの現実にほかなりません。
 今日大きな時代の変わり目に来ています。多くの人は何をしてよいか分からなくなっています。教会さえあるいは絶望したり、失望したりすることがある時代です。そこでは「否(ノー)」という声が力をもって語られます。しかし、そうでしょうか。このような時こそ、神のしかり(イエース)の力が働くのです。ヘーゲルという哲学者は言いました。「ミネルバ(知識)のふくろうは夜飛ぶ」と。そうです神の生きた力が働くのは、まさに夜、人びとが希望を失った時です。
 「神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、『しかり』と同時に『否』というようなものではない。なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである。だから、わたしたちは、彼によって『アァメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油を注いで下さったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである」。パウロはこう語って、教会を力づけ慰めたのです。「ミネルバ(知識)のふくろうは夜飛ぶ」と。地上の「否」の世界のただ中で、神の「しかり」の力が働くのです。
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