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9月7日(日)「キリストの凱旋」説教要旨
  聖句
旧約 「人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ、しかし、さとき人はこれをくみ出す。自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。」   (箴言20:5-6)
新約 「さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った。しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売り物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。」   (Ⅱコリント2:12-17)
 「さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った。しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである」とパウロは書いています。不思議です、伝道、宣教を中心に行動しているパウロが、「主の門が開かれたにもかかわらず、兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った」と言うのです。主の門が開かれたというのは、神さまが、人びとを救う伝道の道を切り開いてくださったという意味ではないでしょうか。ここには、すべきこととしないでいることの区別があります。伝道の門戸が開かれていたのに、それをさておいてすべきことがあったのです。彼はコリントの教会の問題について弟子のテトスを遣わしました。それは牧会ということでしょう。教会の重要な業は伝道、宣教であります。しかし、その伝道した群れを養い育てる牧会ということがあります。どちらを先にするかは、その時、その時で変わって来ます。伝道は教会にとって第一に重要なことです。しかし、第二に重要なことがあります。それはその群れを養う牧会ということです。パウロがここで、教会の牧会を大事にしたことは、理由のないことではありません。
 多くの牧師にとって、すべて伝道、宣教は第一のことにちがいありません。しかし、第二が、第一になる場合も時としてあるのです。今コリントの教会は重大な時にさしかかっています。第二が第一になることもあるのです。それは珍しいことかも知れません。しかし、世の中には、その珍しいことが、ままあるのです。異常事態ということが起こりうるのです。私たちはその時、あわててはなりません。何が先かは、事態が決めます。決して絶対の原則があるわけではありません。イエス・キリストは安息日に人をいやすことを、優先しました(マルコ3:1以下)。何が先かは事態の中で、神がきめてくださるでしょう。そこには人間的な規則の原則というものがあるわけではありません。もちろんおおよその原則はあるでしょう。しかし、異常事態というものもあります。もし私たちその時々で変更する自由をもたなければ、杓子定規では、真の信仰ではありません。イエス・キリストとその愛・信仰が生きることが大切です。
 「いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売り物にせず、真心こめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである」と、こう言っています。「神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語る」、これが原則と言えば、言えるでしょう。そこで生けるキリストが生きておられる、このことが一番大切なのです。キリストが生きていなければ、たとい原理原則が生きているとしても、その原理原則は何とむないしいものではないでしょうか。
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