9月14日(日)「真の推薦状」説教要旨

           聖句
旧約
 「わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。」   (箴言3:1-8)

新約
 「わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」   (Ⅱコリント3:1-3)

  「わたしたちの推薦状はあなたがた自身にほかならない」と、一人一人あるいは個々の教会自身が推薦状であると、パウロは語っているのです。「それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている」、いやそれどころでなく、「あなたがたがキリストの手紙である」と言い、それは墨ではなく生ける神の霊によって書かれ、石の板ではなく人の心の板に書かれたものです。みな自分の胸に手を当てて考えてみましょう。自分自身が、ここに書かれているように、確かに他の人もしくは他の教会にあてた推薦状なのでしょうか。「そんな馬鹿なことはない」と、ほとんどに人が否定するでしょう。自分はそんな「他への推薦状」になれるほど偉い人ではないと、こういうかも知れません。しかし、昔アメリカの大統領であったリンカーンは、ある人を政府の役職につける時、「あの人は顔がよくない」と言って拒否しました。まわりの者が驚いて、「顔で決めるのですか」と言うと、「人は四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任がある」と答えたそうです。もしそうなら随分厳しいことになりそうですね。私たちはリンカーンに認められるように、立派な顔をもたなくてはならないとしたら。しかし、「顔」は別としても、私たちの全生活、全容姿は、ひょっとしたら私自身の責任範囲かも知れません。

  ともかく聖書に帰りましょう。「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」と書いています。私たちはしばしばヨーロッパの大きな教会に入ると、入っただけで、何か神の御臨在を感じるようなことがあります。それは何十年、何百年と神を礼拝してきた人々の信仰が生きて働いているように思えます。このように雰囲気とか全体から来る印象といったものも、決して馬鹿にできない大切なものであることが分かります。パウロがここで「推薦状」と言う場合、それよりももっと現実に近いものです。「わたしたちの推薦状はあなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている」。墨や筆で書かれたのでなく、また紙や板に書かれたものでもなく、実に私たちの心に書かれたものである、と言うのです。それは長い間信仰を続けてきた、霊の内在とでも言えるでしょうか。たとえばある礼拝に出た時、まだ一言も説教は語られない前、賛美歌を歌っている時、私たちはそのような霊的な語りかけを感じることがあります。それは真にキリストを信じる人が、自分では知らないで、他から見るとき、不思議と感じる霊的何かであります。

  それはその霊的雰囲気、そこから出る霊的気迫であります。それは司会者のものだけでなく、説教者のものだけでもなく、会衆全体のもつ迫力であります。「それはキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれた」ものであります。プロテスタント教会は、御言葉中心、説教中心で、下手をすると、礼拝ではなく、宗教講演会のようになります。無教会主義の集会にでたら、それは聖書講義です。賛美歌も祈りもありました。しかし、それはあくまでも聖書講演会でしかありません。それは中心にキリスト、あるいは神が臨在するものでなく、ちょうど学校で、大講堂で講義を教師から聞くといった体のものでした。ただ講義の内容が聖書であるというだけで、礼拝にでたという感じはありませんでした。話そのものは、なかなか良い聖書講義でした。しかし、私たちがいう説教とは違っていました。ここのパウロの言葉を借りれば、「墨によって書かれ、神の霊によっていない、人間のすばらしい講演会」に出た感じでした。

  「わたしたちの推薦状はあなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものである」。こうしたものが、私たちの教会の礼拝でありたいと願わないでしょうか。
   


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