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10月19日(日)「落胆しない」説教要旨
  聖句
旧約 「彼らは助けを叫び求めたが、救う者はなく、主にむかって叫んだけれども、彼らに答えられなかったのです。わたしは彼らを風の前のちりのように細かに砕き、ちまたの泥のように打ち捨てました。」   (詩編18:41-42)
新約 「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」   (Ⅱコリント4:16-18)
 「望み」とは正反対のこと「落胆」について記します。ただここでは「落胆しない」と否定しています。「落胆」は「望み」の正反対です。しかも、日常生活では「望み」よりも「落胆」が多いでしょう。「人生とは落胆の連続である」といっても過言ではありません。しかし、今パウロはその信仰から、「わたしたちは落胆しない」と言っています、しかも「わたしたち」です。パウロ自身は信仰が強いから、例外的に落胆しないのではありません。「わたしたちは落胆しない」。私たちキリスト者は、キリストを信じているのだから、落胆することはないと言うのです。では「イエス・キリストを信じている」、「イエス・キリストの下にある」とはどういうことでしょうか。二つのことが考えられます。一つは、「私たちの生活・思考の中にイエス・キリストというお方とその言葉や生き方が支配している」、もう一つは、「私の中に、イエス・キリストが生きています」ということです。どちらも同じようなことですが、後の方がキリストの内在を示しています。これをイエス・キリストの現臨と言います。ただイエス・キリストの言葉や生き方が私自身の中に支配しているというと、それはたとえば、リンカーンの言葉やその生き方が、自分の生活の基準になっていると言うことが、ただリンカーンからキリストに変わったことになってしまいます。そうすると、リンカーンをお手本にして生活することと、キリストをお手本にして生活することが、並行していることになるのです。するイエス・キリストは、この歴史上の偉大な人物の一人ということでしかなくなってしまいます。それでよいでしょうか。私たちはただキリストを手本にして、あるいはキリストを手引きにして生きる、生活上の模範になります。その時、イエス・キリストを信仰の対象としてではなく、歴史上の人物として、模範にして生きることになります。その場合キリストを信じているのでなく、ただ道徳的模範として生きることになります。それは旧来の生活の中に、歴史上の模範的人物の中にもう一人キリストが入ってきたという位のことです。そこにはイエス・キリストの卓越した位置は何もありません。
 その場合、「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」という言葉はどうなるでしょうか。イエス・キリストは目に見えるものの一つになっていないでしょうか。その場合、イエス・キリストは模範的歴史上の人物の一人です。それなら私たちは道徳的立場で考えているのであって、イエス・キリストを信じ、信仰の対象としているのではありません。あなたはキリスト教という道徳教の一つを学んでいるに過ぎません。道徳には、回心ということも、聖霊の働きということもありません。
 ここでパウロは、「見えるもの」と「見えないもの」の対比に対して、「外なる人」と「内なる人」という対比を並列させています。このことは先ほどの「落胆」と関係があります。「外なる人」というのは、「目に見えている自分」です。人の外見です。「外なる人は滅びる」と言っています。しかし、「内なる人は、日ごとに新しくされていく」とあります。だれからも見える私たちの外見的人間は滅びる、そうです。誰でもそのからだは必ず死を迎えます。死ねば、そこに外見的に見える人間はおりません。しかし、人間はただそれだけでしょうか。旧約聖書の伝道の書に「わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互いにねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである」(4:4)とあります。このように外見的なものはみな滅びるのです。目に見える物質的世界は変転極まりなく、すべて滅びさってゆきます。それを昔の人は「諸行無常」と言いました。「諸行」とは、この世にあるすべてのもの、「この宇宙の一切」を指します。「この宇宙にある森羅万象は、すべてやがて消え去るべきもの、むなしいものにすぎない」という考えであります。つまり永遠に変わらぬものは何もないというのです。それが「諸行無常」という考え方です。しかし、その滅びゆく目に見える世界だけがこの世界ではありません。「たとい私たちの外なる人が破れても、内なる人は、日に日に新しくなってゆきます」。もう一つの世界、もう一つのわたしがあります。伝道の書の言葉を借りれば、「わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変わることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである」(3:14)。
 しかし、聖書はそれのみにとどまりません。「たといわたしたちの外なる人が破れても、内なる人は、日に日に新しくなってゆきます」。この言葉は、わたしたちが具体的な生活上のことで日々悩み苦しむ時、新しい力と信仰とを与えてくれます。「イエスを死人の中からよみがえらせた神は、その御力によって、わたしたちの死ぬべきからだをも新たによみがえらせてくださいます」。イエスは永遠のいのちを信じないマルタに対して言われました、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11:25)と。それは諸行無常の正反対です。イエス・キリストというお方を通して私たちは生ける神の永遠の生命にあずかるのです。
 私たちは、「外なる人」を肉体、「内なる人」を心とのみ考えてはなりません。もし信仰に立たなければ、イエス・キリストの信仰に立たなければ、心の世界も肉にすぎないでしょう。現代は物質中心、科学主義の時代ですから、それは「見えるもの」が主です。それはただ「見えないもの」が忘れられ、物質主義だから、もっと精神にかえれと言うのではありません。精神や心も神から離れ、信仰に生きていなければ、それもまた物質と同じく、肉に過ぎません、聖書はただ精神と物質の二元論ではなく、神に生きる世界と神から離れた世界の二元論であります。しかし、現実には信仰に立つ時、神から離れた世界というものは存在しませんから、肉の世界もまた、神によって創造された神の世界なのであります。こうして「内なる人」と「外なる人」の違いは、ただ神さまを中心に考えるべきです。神から離れた時、人は滅びの世界にあり、神に生きる時、日々に新らたである内なる人となっているのではないでしょうか。
 現代は物質中心の時代です、科学主義の時代です。それは物が悪いのでも科学が悪いのでもありません。「物質中心」が悪いのです、また科学が悪いのではなく、「科学主義」が悪いのです。神がいまさない時、すべて信仰によらないことは罪なのです。神がいますなら科学はよく用いられ、物質もまた神の創造の業に仕え、神の栄光をあらわすでしょう。
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