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10月26日(日)「地上の幕屋」説教要旨
  聖句
旧約 「神の目が人の道の上にあって、そのすべての歩みを見られるからだ。悪を行う者には身を隠すべき暗やみもなく、暗黒もない。人がさばきのために神の前に出るとき、神は人のために時を定めておかれない。彼は力ある者をも調べることなく打ち滅ぼし、他の人々を立てて、これに替えられる。このように、神は彼らのわざを知り、世の間に彼らをくつがえされるので、彼らはやがて滅びる。」   (ヨブ34:21-25)
新約 「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にしてくださったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」   (Ⅱコリント5:1-10)
 「幕屋」とはテントを意味します。イスラエルは、エジプトを出てモーセに率いられ、パレスチナの地に到着するまで、また到着してからも、かなり長い間、テント生活をしていました。このことは、わたしたちの地上の信仰生活について重要なことを指し示しています。つまり、「私たちの国籍は天にあり」(ピリピ3:20)。とすれば地上の生活は、いわば仮住まい、途中の生活です。けれども、「途中」だから、臨時のものという訳ではありません。途中のひとつひとつ、その停車駅のひとつひとつが重要なのです。なぜなら、その途中駅は、とりもなおさず天の目標につながっているからです(ランケという歴史家がいました。その歴史のひとこまひとこまを大切にしました。そのひとこまひとこまに、大切な人間個人の生があるからです)。しかし、同時にテントということは、それは絶対的な永遠ではなく、永遠を指し示している途中停車駅であるということです。この二つを心していなければなりません。1 永遠に向かっているということ、2 しかし、途中であるということ。それはちょうど私たち人間が、弱い肉体を、もちそれは「しばし」の性格と共に、その指し示している「永遠」の性格をもあわせもっているということと似ています。それが私たち地上の人間のもつ二重性であります。
 テントは解体されても、無になったわけではありません。私たちの地上の生は、滅びやすいものですが、無になるのではありません。ちょうどイエス・キリストの復活のからだには、十字架の傷跡がはっきりと認められるように、私たち地上的なものは、地上の過ぎ去る時間的なものと、天を指し示し、永遠を語る消え去らないものとがあるのであります。この二重性を忘れてはなりません。パウロのいう次のことであります。「私たちの地上のテントの家がこわれても、神からの建物、手でつくったのでない、天にある永遠の家をもつことを、私たちは知っています」。「そしてその中で、もだえ苦しみながら、天からの私たちの住まいを、その上に着たいと切に願っています」。「このテントの中にいる私たちは重荷を負ってもだえ苦しんでいます」。
 どんなに恵まれない生涯でも、名も無くして死んだアウシュヴィッツ、ヒロシマの死者の生涯もむなしくはなく、むしろ覚えられて新しくされるのです。だからこそパウロは「その中でもだえ苦しみながら、天からの私たちの住まいを、その上に着たいと切に願っていた」のです。
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