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2014年11月16日(日)秋の伝道集会説教「信じることと生きること」
説教:蓮見和男
  聖句
旧約 「彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った。『ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう』。」   (歴代志下20:20)
新約 「そこで人々は、その子をみもとに連れて来た。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。そこで、イエスが父親に『いつごろから、こんなになったのか』と尋ねられると、父親は答えた、『幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください』。イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんなことでもできる』。その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』。」   (マルコ9:20-24)
 今日の題は「信じることと生きること」であります。まず「生きること」から参りましょう。私たちは皆「生きています」、その「生きている」ということは、ただ「息をしている」、「生を営んでいる」という意味でしょうか。そういう意味なら動物でも、またある意味では植物でも「生きている」と言うことができます。しかし、ここで「生きている」と言ったのは、そういった動物的あるいは植物的生を「生きている」ことではありません。それなら私たちの信仰と直接にはつながりません。「生」というのは、信仰から見る時、私たち人間の生活です。食べたり飲んだりするだけではなく、人間同士のつきあいからもっと深い精神的つながり、文化的活動などすべてを含みます。人間は、そのような幅広い意味で、あらゆる文化的社会的営みの中で生きているのです。そしてその人間の文化的社会的営みの中で、宗教的生もあります。
 ただ私たち人間の「生」には、今言った動物的生の面もあります。しかし、その上にもっと高度な文化的営みもあります。そのような複雑な営みの中で、「信じることと生きること」が位置を占めているのです。そこで大切なことは、「生」には終わりがある、つまり生は死で終わることであります。「生あるものは必ず滅す」とよく言います。「生」は「死」を考える時、一番崇高な宗教的信仰的いのちに到達するのであります。「死」を考えない「生」は、おめでたい子供らしい単純な生でしかありません。「死」に思いを致す時、初めて生はその深みに達するのではないでしょうか。道元も「生をあきらめ、死をあきらめるは仏家一大事因縁なり」と申しました。「生をあきらかにし、死をあきらかにすることが、仏教の最大関心事である」と言っているのです。ハイデルベルク信仰問答にも、「生きるときも死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いが初めにあります。
 「死」において問題になることは、永遠ということです。もし永遠ということがなければ、死は消滅を意味し、無に帰することになります。確かにに「死ぬ」ことを「烏有に帰す」と申します、「烏有」の「烏」は否定の意味で、「烏有」は「不有」の意味であります。したがって「烏有に帰す」は「無に帰す」ことで、「すべてがなくなる」意味です。私たちにとって「死」は「烏有に帰す」こと、つまり「すべてが無に帰す」ことでしょうか。一見そう見えます。火葬場に行って御遺体を葬る時、死体が火で焼かれる場合、火でもえて一切は無に帰すると、だれしもそう思いがちです。
 しかし、そうでしょうか、私たちには死んで復活する信仰があります。つまりさきほど言った「永遠」に対する信仰があります。それは決して私たちの希望、願望であるだけでなく、私たちの信仰の根拠であるイエス・キリストが十字架の上で死んで、三日目に死人の中からよみがえられた。イエスの十字架の死で、がっかりし失望して、あるいは絶望して、弟子たちは意気阻喪してしまいました。彼らはユダヤ人を恐れて、戸をしっかりと閉じて、内にこもっていました。しかし、その意気阻喪した弟子に勇気を与え、ふたたび立ち上がらせたのは、復活のキリストであります。信仰は復活から始まるのです。死は「烏有に帰する」のでなく、新しい始まりをもつのです。死は信仰者にとって、新しい始まりであります。
 「永遠」ということがあります。地上の短い生は、確かに現実です。私たちはそれを認めなくてはなりません。しかし、その「向こうに」あるいはその「上に」、もう一つの生があるのではないか、そのことは考えられないことはありません。見えるものがあると共に、目に見えない世界があります。第一に「神」は見えません、「聖霊」も見えません。しかし、私たちはそれを信じています。パウロはこう言っております、「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(Ⅱコリント4:18)。信仰とは、ただ見えるものだけでなく、見えないものに目を注ぐ行為の一つです。私たちはそこに「永遠につづくもの」を見て、それを信じて進むのであります。
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