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11月23日(日)「恵みの時、救いの日」説教要旨
  聖句
旧約 「主はこう言われる、『わたしは恵みの時に、あなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。』」   (イザヤ49:8)
新約 「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」   (Ⅱコリント6:1-10)
 皆さん、信仰には、第一に「神にお任せする」ということがあります。なぜなら「すべてのことは神がご存じで」、「わたしたちは神になることはできない」からです。讃美歌291番に、「主にまかせよ、汝が身を、主はよろこび、たすけまさん。しのびて春を待て、雪はとけて、花は咲かん、あらしにも、やみにも、ただまかせよ、汝が身を。」という歌があります。その二番はこうです、「主にまかせよ、汝が身を、主はよろこび、たすけまさん。なやみは、つよくとも、みめぐみには、勝つを得じ。まことなる主の手に、ただまかせよ、汝が身を」。すべて主なる神におまかせしなさい、神さまは全能の神だから、きっと喜んで助けてくださる、と言うのです。
 「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』」。これが今日の聖句です。「神は必ず助けてくださる」、「わたしたちは神と共に働く者なのだから」、「わたしたちが神と共に」といことは、「神がわたしたちと共に」ということを含んでいます。クリスマスのメッセージに、「インマヌエル、神われらと共に」という言葉があります。クリスマスとは何でしょう。それは二千年前、神が人となってイエス・キリストの形で、地上に来られた」ことを表します。イエス・キリストは実在します。そのイエス・キリストにおいて、神が人となられたのです。ヨハネ福音書は、イエスのことを「神のロゴス(言)」として、「初めに言あり、言は神と共にあり、言は神であった」と記しています。「ロゴスが人となった」とは、クリスマスの訪れです。クリスマスは神の子イエスが地上に生まれたことを祝う日ですから。このようにクリスマスにおいて神がわたしたちと共にいてくださるのですから、「わたしたちはまた、神と共に働く者」でありますし、神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」と。このことは、イエス・キリストを考えると、よく分かります。イエス・キリストが自ら「神と共に働く者」となられたのです。もしこのイエスがいなければ、私たちは決して「神と共に働く者」とはなれないでしょう。私たちは、イエスに続いて、その跡をたどってのみ、「神と共に働く者」となれるのです。イエスご自身が「神と共に働く者」となられたので、初めて私たち神と働く者となれるのです。私たち自身だけでは、決してそうはなれないのです。それは私たちの罪が邪魔しているからです。罪深い私たちは決して「神と共に働く者」とはなれないでしょう。しかし、イエスは違います。イエスはそのご生涯において、神と共に働きました。そしてそのご生涯の終わりに、十字架において、完全に神に従い、神と共に働く者となりました。このイエスがあった、初めて私たちはイエスにおぶさって、イエスを模範として、イエスに従って、「神と共に働く者」となれるのです。「インマヌエル、神われらと共に」という事実があって、初めて私たちは「神と共に働く者」となれるのではないでしょうか。
 こうして「神と共に働く」とは、私たちにとって、「イエスと共に働く」という意味ではないでしょうか。それで今日の聖書で、「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」と言われているのではないでしょうか。それでパウロは、「この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と言えるのであります。
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