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2020年4月12日(日)イースター礼拝説教「 闇の中の希望 」
説教:小林宏和
  聖句
新約
『ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。』  (ルカ24:13~35)
13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
14 この一切の出来事について話し合っていた。
 
2000年前のイースターの日、エルサレムから60スタディオン(競技場60個分)離れているエマオに向かって歩いた彼らは、24章17節にあるとおり、「暗い顔」をしていました。その心が、深い失望で満たされていたのです。彼らの計画や期待が、死によって幕を閉じたからです。
 地上の主イエスには、多くの人々が期待をしていました。ある人々は、イスラエルの解放者としての主を期待します。預言者モーセが、大国エジプトの元に苦しむ民を救い出したのと同じように、ナザレのイエスが、民を大国ローマから解放してくれる。このような期待を人々はもっていたのです。そのことは、24章19節の「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」という言葉からもわかります。この表現は、預言者モーセに対して使われることのあるものだからです(使徒言行録7章22節以下)。ルカによれば、主イエスがお生まれになったのは、当時の帝国ローマの圧政の中でした(ルカによる福音書2章1節以下)。イスラエルの状況を逆転させてくれるようなメシア待望の中で、主は歩まれたのです。
もちろん、そのような多くのイスラエルの人とは異なり、主イエスの弟子たちは、主に対して別の期待を持っていたはずです。多くの弟子たちは、主イエスは、思い上がるものを打ち散らす方、身分の低いものを高く上げる方、飢えた人を良い者で満たす方、病を癒やし、回復をもたらしてくださる方ということを、主の言葉と行いとを通し、知らされていたからです。しかし、知らされていたからとはいえ、弟子たちが主のことを本当に理解していたとは限りませんでした。あるいはその反対であったとも言えるでしょう。
主を十字架にかけた者たちは「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23章35節)「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ」(39節)と言いました。しかし、三度繰り返されるこの言葉は、十字架を前にしたすべての人々の思いを表すものでしょう。恐らく弟子達でさえも、危機の時には、クリスマスの夜空がそうであったように、天から天使の大軍が表れて、土壇場で主イエスが勝利されるはずだ、このように考えまた期待していたのではないでしょうか。その上でまた弟子たちは、主の次に「だれがいちばん偉いだろうか」(9章46節、22章24節)ということを、度々議論をしながらも、エルサレムに向かっていたのではないでしょうか。「主と一緒であれば牢に入って死んでも良い」(22章33節)とまで、豪語していたのではないでしょうか。
しかし全て十字架の死によって失望に終わりました。
主イエスは、卓越した政治的指導者でも、打倒ローマの反乱軍リーダでもありませんでした。そればかりか、ユダヤの宗教的権威である、議員達、祭司長達を否定するものでした。その結果、24章20節にあるとおり、ユダヤ人の祭司長、議員たちにより主は引き渡たされ、十字架にかけられたのです。十字架を前にし、奇跡は起きませんでした。弟子達は、「わたしはあの人を知らない」と繰り返し主との関わりを否定し、蜘蛛の子を散らすように逃げました。このようにして、期待の主は十字架の上で殺され、後には失望が残ったのです。
それゆえ、24章に出てくる二人の人は、暗い顔をして歩いていました。その人生において、明確な希望が失われたことに絶望を感じながら、エマオへの田舎道を歩んでいたのです。
ルカ福音書が最終章24章でつげているこの人たち、明確な希望が存在しないことを憂い、虚無を思いながら歩む人というのは、クレオパ(24章18節)であると同時に、今を生きる私たちのことを指しているように思います。わたしたちも、より良い環境や、明るい計画をもとに、上を向くことができます。しかし本当のところ私たち自身がよく知っているように、私たちが良いと思う環境や、私たちが立てる明るい希望によって、私たちは上を向き続けることはできないのです。その結果、私たちは、上ではなく下を向くことになります。
そして、エマオ途上の人と同じように、人の暗い状況の中に根本的に横たわっているのは、私たちの究極的な限界である死の力だと思います。人の生も、死に向かって進み、死で閉じるのです。それまでのよい環境も、計画も、この究極的な問題と共に終わってしまいます。十字架の最後も死です。これが、私たちを根本的に脅かす問題であると思います。
しかし聖書によれば、実は物語はここから始まるのです。この24章という最後の章、予定どおり行かない現実と死を前に、人が力を失っているこのところから、新しい希望の物語が再び始まります。私たちの常識から考えれば、終わりはただの終わりであり、絶望はそのまま絶望でしょう。しかし、無から世界を創造された方のみは、終わりを始まりに、絶望の闇の中に光を灯すことがおできになるのです。
ルカによる福音書24章13節はその冒頭から、その大きな変化のための小さなきっかけを一つ私たちに提示しています。それは弟子が「2人」で、複数で、語り合っているということです。彼らは先が見えない中、お互いただ沈黙を守るのではなく、1人で悲しみを背負いこむだけではなく、歩きながら互いに胸の内を語り合い、交わりをもっていたのです。復活の主が表れ、ご自身について話されたのは、このような語り合いと交わりの中でした。希望を失った中、先が見えない中においても、仲間と共に語り歩む。この一つの小さな変化のきっかけを、本日の箇所は、私たちに示しているように思います。
キリスト者の生における礼拝の意義は、いろいろな仕方で表すことが可能でしょう。しかし今日のルカ福音書の物語と重ねて考えてみるならば、問題があるわたしたちの人生、希望を失う私たちの歩みのただ中で、その週の始まりにおいてはまずは仲間と共に集まり、ともに話しを聴き、語る時を持つ。このことは神さまが備えてくださった礼拝から始まる、人の生の正しいリズムであると思います。もちろん、教会でなくとも、色々な集まる場所や、様々に活動する場所はあるでしょう。それはそれで大切です。しかし、単なる気晴らしやストレス発散のために集まり語るというのでは、結局は死の問題という闇の前では意味が無いとも思うのです。教会とは、人の一番中心的な問題に目を転じ、語り、また聴く場所です。それは、人間の生について、死について、人の消える希望と計画ではなく、神の消えない希望と計画について聞き、語る場所です。
その意味で、今、新型コロナウイルスの影響により、礼拝に集うことができないこの状況は、本当につらく悲しいものです。なんとか集まりたいという思いが確かにあるはずです。しかし私たちは、エマオ途上の人がそうであったように、この時だからこそ、いろいろな手段を用いつつ、お互いをつなぎ、語り合いたいと思うのです。聖書をそれぞれ開き、祈りを合わせ、手紙でも電話でもインターネット経由でもそれぞれの手段で、自分たちの自身のことを共有し、主を語りたいと思うのです。そして、物語によれば、エマオ途上で話し込む弟子達の前に、復活の主イエスが現れました。
15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
この部分は、主イエスの御性質と、人間の性質をよく表しているように思います。主イエスの御性質、それは、最悪と思える状況の中、悲しみに囲まれた状況の中、そして出口が見えない状況の中に、主自ら表れてくださり、出口を見つけるための手助けを、進むべき方向の示しをくださるということでしょう。それに対して、人間の性質とは、そうであるにもかかわらず、私たちは、その確かな主の導きに全く気がつかないということです。
神は確かに求めるわたしたちと共に生きてくださいます。しかしながら、当の本人であるわたくしたちは、それに気がつかないのです。どうして私たちは、もっとも大切な事柄に関しては「物わかりが悪く、心が鈍く、信じられない者たち」(25節)なのでしょうか。なぜ人の目に覆いが被さっているのでしょうか(16節)。
エマオ途上の人も、十字架の死が終わりなのではなく、その後に復活があるということを聴いてはいました。仲間の婦人達が、朝早く葬られた墓を見に行ったところ、その墓は空っぽだったからです。そして、不思議に思う婦人達の前に天使たちが現れ『イエスは生きておられる』と告げていたからです。
22: ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、
23: 遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
主なる神にとっては、十字架もその死も、まだ終わりではなく、再び生きることの始まりでした。私たちの罪のために十字架につけられ、死んで葬られた主を通して、真の神の道は始まったのです。このことをしかし、2人の弟子達も理解できませんでした。では、かれらはどのように、神の真実に、主イエスは復活され人の傍らにおられるという真実に気づくことができたのでしょうか。突然の暗闇、これが受難の最後に起こることでした。
この部分は教会の歴史の中では、天の父なる神が御子の十字架の死を悲しみ、日食を起こされた、と説明されることもある箇所です。しかし全地が暗くなり、太陽が光を失うというこの表現は、日食という以上に、私たちにとって深刻な意味をもっているように思います。ここで私たちが、旧約聖書の創世記の始まり、神の天地創造の第一声、「光あれ」という一言を思い起こすならば、その光が、しかし受難の場面においては、撤回されていると考えることができるでしょう。つまりここで描かれている十字架の死とは、神の創造の撤回にも等しいような重大で悲惨な出来事である。このようにも言えると思うのです。
それは第一に、24章27節にあるように、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、イエス・キリストについて書いてあることを聴くことを通してでしょう。
27: そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。
日曜学校、そして主の礼拝でなされているのと同じように、聖書全体の物語を聴くことをとおし、この人たちは変えられていったのです。私たちの思いを遙かに超えている神の救済計画を表すために、神ご自身は、物語という形式、手段をお選びになりました。キリスト教の礼拝で行っていること、それは端的にいえば、この物語をくり返し読むということです。それは、現代的に考えれば、あまり意味がない行為に思えるかもしれません。もっと効果的な伝え方があるのではないか。このように考える人もあるでしょう。しかし、幼い子供がくり返し一つの本を読み楽しむのと同じように、私たちも聖書の物語を読み楽しむことを通し、目の覆いを外されて行きます。神の真実は、神の物語を読むことを通して、神の物語を聴くことを通して、明らかになるのです。
そして第二に、彼らの目の覆いは、主イエスともに食事の席に着いたとき、完全に取り払われました。
30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
主イエスがパンと取り、祝福して裂き、人に手渡したとき、また人の目は開けます。主イエスが、確かに復活されたということ、そして、人と共にいてくださるということを確信するのです。この主が与えてくださる交わりの時を、歴史の教会は、礼拝の中での聖餐式として大切にしてきました。
十字架の死の闇の中、主の復活の話は聴いてはいるが、本当には信じてはいない者たちは、こうして、聖書の物語をくり返し聴き、また祝福されたパンの時を共有することで確かに変えられます。その結果、死を前にして暗い顔をしていたものが、32節以降にありますように、心を燃やし、時を移さずして出発するもの、よいと思うことに関しては、すぐに行動するものへと変えられたのです。
32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
エマオ途上のこの2人のように希望を失い、ため息をつく私たちのために、死を克服された主イエス・キリストが傍らに立っていてくださいます。心が鈍く、信じることの少ない私たちには、そのことがまだ分からないかもしれません。ただ、一つ確かなことは、今日の物語にあるように、どんな絶望も困難も、死でさえも消すことができ無い希望の火を、傍らにたつ主が灯されるということです。その神による燃えるような心の火は消えることが無いのです。そのような火を灯した者たちが、神が造られたこの世界を照らし、希望あるものへと変えてゆくはずです。
最初のイースターから2000年たったこの時、おなじ物語を共有した私たちの心の中にも、主イエスは火を灯してくださいました。それはまだ小さく、あなたは気づかないかもしれません。しかし、神が灯す火は決して消えることはありません。それは少しずつ大きくなるのです。希望の火を心に灯しながら、イースターの世界を歩んで行きましょう。
祈りを捧げます。
死に打ち勝ちたもうた御神よ。あなたは悲しみつつエマオへ向かう閉ざされた弟子達の目を開き、復活の希望の力を見せてくださいました。どうぞ、死を、病気を、困難と苦難を恐れるわたしたちと、共に歩んでください。そして、復活の希望の光を、わたしたち一人ひとりの心の中にも灯してください。
消えない光を灯された私たちが、また、世界をも、明るく照らすことができますように。
とりなしの祈り
主よ
私たちの町々、国々、そして全地のために祈ります。
あなたがそこに、公平と平安、よい秩序を与えてください。
主よ
命が脅かされ、不安と絶望にある人たちのために祈ります。
あなたがそこに、必要な助けと備えとを与えてください。
主よ
感染対策の最前線にいる人たちのために祈ります。
どうぞあなたが、予期できぬ危機を克服する力を与えてください。
主よ
政治や法に携わる人のために祈ります。
上にたつ者が、正義を求め、民の福祉に努めることができますように。
主よ、
平和をつくり出すすべての人を祝福してください。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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