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2020年5月31日(日)主日礼拝説教「 聖霊なる神と共に行け 」
説教:小林宏和
  聖句
旧約
『1:その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。 2: その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。』  ヨエル書 3章 1節~2節
新約
『1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5:さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6:この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7:人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8:どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9:わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10:フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11:ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 12:人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13:しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。』  使徒言行録 2章 1節~13節
 
ペンテコステ礼拝を守る今朝、私たちは、聖霊なる神の業について、聖書から聞いてゆこうとしております。ペンテコステとは、主イエスの復活から、50日目、天から聖霊が与えられ、キリストの体である教会が生まれた日を祝う時です。歴史の教会の中でこの日は、クリスマス、イースターと並び、その特別な意味が重んじられ、大切にされてきました。クリスマスの主の御降誕も、イースターの主の復活も、ペンテコステの聖霊の降り注ぎも、すべて、私たち人間のため、神さまの目からみればまったく取るに足らない私たちのために、神が起こしてくださった、救いの奇跡です。これらは全て、神さまの救済の業、という点では共通はしています。しかし、それぞれの出来事の、意味と方向性とは異なっているでしょう。私たちは本日、ペンテコステという出来事の、意味と方向性を聖書から聞いていきたいと思うのです。その意味と方向性を、一言で言い表すならば、説教の題で表されておりますように、聖霊なる神とともに行け、というものになります。
 
聖霊なる神、とは、少し捉えどころがないと思う方もいるかもしれません。そしてこれは、ある意味で正しい理解だとも言えるでしょう。例えば、旧約聖書には、父なる神についての物語が、あるいは父なる神ご自身の言葉が多く記されています。新約聖書には、御子イエス・キリストの生涯が、その言葉が、その行動が、多く記されています。しかし、ことペンテコステの聖霊に関して考えると、例えば、聖霊の言葉というのは、聖書には記されていないと考えることもできるでしょう。もちろん、神の霊という言葉は、創世記の冒頭から登場していますし、後から確認しますように、他の箇所でも聖霊なる神さまの豊かな働きは多く記されているわけですが、それでも、父なる神、御子キリストと比べるならば、捉え所が難しいという思いは、出てくるものだろうと思います。しかし、そのことこそが、聖霊なる神の大きな、そして重大な特徴であると言うことが可能です。聖書が記さないことで、しかし、指し示している、聖霊なる神の重要な御性質というのは、聖霊が、ロゴスでは、あるいは言葉では捕らえきることが困難であるという点にあると思います。そのことは本日の使徒言行録の記事からも、よくわかるのです。
 
ただ今、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神、と申し上げましたが、私たちが告白する、日本キリスト教会の信仰告白にも示されていますように、キリスト者が信じているのは、三位一体の神さまです。3つにして1つであり、1つにして3つ、というこの三位一体という言葉、あるいは概念は、数学的に考えればおかしなものではあるかもしれません。しかしこの三位一体というのも、人間の想像を遙かに超えるような、神さまの豊かさを示すものだと思います。また三位一体とは、神さまご自身が、絶対者であると同時に、対話を重視される方であるという神的事実を示すものであるとも言われます。私たちが信じ、告白する三一の神の理解をより確かなものにするためにも、ペンテコステの本日、聖霊なる神さまについて確認してゆくことは大切でしょう。
 
三位一体の神さまの聖霊という位格について、先ほどお読み頂きました、使徒言行録2章の2節は次ように伝えます。
2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
 
突然というのはつまり、思いもよらないところから、思いもよらないタイミングでということでしょう。「激しい風が吹いてくるような音」というのは、その場を、大きくかき乱すような、その場を振動させるような力を示す表現ではないでしょうか。風と音とについては、福音書の中で主イエスが「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と語られ、続けて「霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネによる福音書3章8節)と言われています。この、主の言葉を考え合わせても、「激しい風が吹いているような音」としてのペンテコステの聖霊の到来は、人間の側からすれば、突然の、予想を超えた、家と大地とを揺れ動かすような力だったことが分かります。
3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
 
しかし、聖霊は、音と風としてだけ、捉えられるものではありませんでした。
 
使徒言行録の著者ルカは、福音書の中で、聖霊と火とを並べて登場させていますが(ルカによる福音書3章16節)、ペンテコステの時、聖霊は炎のような舌としてもまた現れ、一人一人の上にとどまったというのです。そして、4節以降を見ると、なぜ、聖霊なる神が、一人一人の上にとどまったかが分かります。
4:すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 
創世記2章7節で、人は、神の霊に息を吹き入れられ創造されたことが記されていますが、ペンテコステの時、聖霊なる神は、一人一人の上にとどまってくださり、それまでとは違う言葉を語る人を、つまり新しい言葉を語る新しい人を、創造してくださったのです。
 
しかしいったい、どう新しいというのでしょうか。5節以降を読むと、聖霊に満たされた人たちが、世界各地の言葉を語り始めたことがわかります。そしてその状態は、周りの人々から、「あの人たちは、酒によっているのではないか」、といわれるほど、いわば異質な状態であったというのです。そして、この新しい言葉、異質な言葉を語る人から、ペンテコステの時、教会が始まったということを、使徒言行録は報告し、教会の歴史は証言し続けているのです。
 
この新しさ、異質さ、ということについては、本日読んでいただきました、旧約聖書ヨエル書3章の御言葉に、よく示されています。この言葉は、続く使徒言行録2章の14節以降で、ペトロが説教をした時に引用したものです。しかし、そもそも私たちは、このペトロという人が御言葉を説教をしているということ自体に、聖霊による新しい創造を確かに見ることができるはずです。なぜなら、ペンテコステから、ほんの50日前、正確に数えれば53日前、あの十字架の場面でのペトロは、語ることを拒否する者であったからです。ルカによる福音書22章の記事を知る私たちは、主イエスの第一の弟子とも言えるペトロが、「主よ、ご一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」(22章33節)と威勢のよい宣言をしたその直後に、その舌の根も乾かぬうちに三度、「わたしはあの人を知らない」(22章57節)、(「おまえもあの連中の仲間だ」)「いやそうではない」(22章58節)、(「確かにこの人も一緒だった」)「あなたの言うことは分からない」(22章60節) と主を否定したことを知っています。
 
そのペトロが、ペンテコステの時に囲まれていた状況は、十字架の時と類似のものではあったでしょう。そこにおいても、弟子たちの周りの人々は「あっけにとられ」(2章6節)、「驚き怪しんで」(2章7節)いたのです。「驚き、とまどい」(2章12節)「新しいぶどう酒によっているのだ」(2章13節)とあざけっていたのです。このように、主を否定し怪しむ人たちを前に、50日前には沈黙し、逃亡したペトロは、ここでは、新しい言葉を語り始めたというのです。これが、聖霊なる神を受けた人に起こる、新しい創造なのです。
 
このペトロに起こった変化に確かに示されていますように、炎のような舌が一人一人にとどまるという聖霊の業は、人に、何か気分が晴れやかになったとか、前向きに考えられるようになった、というような程度のもの、つまり、内面の変化にとどまるような変化を与えるのではありません。創造の時に、神の霊に命の息を吹き入れられた人が、十字架と復活という神との和解の後、聖霊によって、新しい命を与えられるということは、当然それ以上のこと、誰がみても新しいと思えるような、語りを、働きを、もたらすものなのです。
 
聖霊なる神によって、新しい創造の力を受け、押し出されたキリスト者たちは、文字通り、ここから全世界に向けての歩みを始めることになります。よく、使徒言行録は、聖霊言行録であるとも言われます。主イエスの復活と昇天の後の、使徒達の行いと言葉とを記録した使徒言行録ではありますが、その使徒達の行動と言葉に先んじて、聖霊なる神が、まず働かれ、人に力と言葉とを与えているからです。聖書の中には、悪霊と呼ばれる奇異な存在も登場し、使徒言行録にも例えば、その16章を見ると、悪霊のようなものが登場します。聖書に登場いたしますこのような悪霊は、一言で言えば、人を縛る性質を持っているのに対して、聖霊なる神の力は、人を自由に、大胆に、解放する性質があるのです。それは第一に、福音伝道のためといえるでしょう。しかし、福音伝道とは、何も教会という組織の存続のためだけではありません。それは、この地上における神の国の実現のためともいえるでしょう。私は、聖霊なる神の力を受け、聖霊なる神と共に、それぞれが自由にされ、必要な語りをし、行動をしてゆく必要があるのです。
 
このように、人を新しくし、自由にし、解放する聖霊なる神の降り注ぎによって、ヨエル書3章の言葉、
1:その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。 2: その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
 
という神の言葉は、キリスト者によって語られ続け、歴史の中で、現実となっていきました。ペンテコステの日、聖霊注がれた、初代教会の人々は、世界の果てまで宣教するという夢と幻を、あざける人やいぶかしむ人が取り囲む現実よりも確かなもの捉えました。主が授けてくださった言葉を、幻を、地上を支配する当時の帝国より遙かに確かなものと捉えつつ、迫害の中を伝道していくことができたのです。その結果、神の幻をみた新しい人が、神と共に世界を変えていったということができるでしょう。
 
ヨエル書3章1節の御言葉は、1957年に、世田谷の地でも実を結び始めたともいえます。伝道の夢と幻を見た、柏木教会から送られた信徒と牧師とがここに集まり、また、先んじてこの地で伝道をしていた群れと合流して、今に続く教会の基礎を造ったのです。ある者は召され、ある者は新しく集められながら、私たちは主の幻を現実にするため、働きを続けてゆきたいと思うのです。
 
伝道52年目にして、確かに私たちは一つの困難、ともに礼拝堂で礼拝を守ることができないという困難を迎えました。しかし、この時を、共に祈りあい、連絡を取り合い、それぞれの場所で礼拝を守りつつ、私たちは主の導きの元に過ごすことができました。この日、ここから私たちも、私たちを新しく創造する聖霊なる神を受け、新しい、自由な、大胆な歩みを、神と共に進めてゆきたいと思うのです。それは、教会に関わる活動であるにせよ、あるいは、社会と世界の中での活動であるにせよ、黙っている歩みではなく、語ってゆく歩み、何かに縛られたような不自由な歩みではなく、大胆な歩みとなるのではないでしょうか。
 
ヨエル書がつげるように、ペンテコステの聖霊が注がれるのは、「全ての人」です。息子にも娘にも、老人にも若者にも、奴隷にも、その聖霊は注がれるのです。ペンテコステの聖霊は、使徒言行録2章が告げるように、炎のような舌として、「ひとり一人」の上にとどまるのです。御言葉の周りに集まる、あなたの上に、聖霊の力が降り注ぐのです。
 
一言祈りをささげます。
 
わたしたちの健康を支え、今朝もまた、あなたの言葉の周りに集まることのできる恵みを感謝します。どうか、わたしたちを助けて、あなたの御言葉を聞き分け得るものとしてください。わたしたちの舌が回り、あなたのみ名を褒めたたえることができるものとしてください。
 
私たちの中に、自由な、御霊の風が吹き抜けるようにしてください。
 
どうか、わたしたしの新しい季節の日々において、私たちが、教会のために、隣人のために、あなたが創造された世界のために、新しい歩み、大胆な歩みをしてゆくものとなることができますように。今まで黙っていた私たち、怖じけずいてきた私たちの姿があったなら、どうぞ、それぞれの耳と口をあなたが開かせ、正しい言葉を聞き、語るものとさせてください。
 
どうか、高齢のため、病のため、さまざまな重荷を負っている仲間の上、一人一人の上に、あなたが新しい創造の力を注いでくださり、一人一人を、いのちの息吹きで満たしてくださいますように。
とりなしの祈り
主よ
私たちの町々、国々、そして全地のために祈ります。
あなたがそこに、公平と平安、よい秩序を与えてください。
主よ
命が脅かされ、不安と絶望にある人たちのために祈ります。
あなたがそこに、必要な助けと備えとを与えてください。
主よ
感染対策の最前線にいる人たちのために祈ります。
どうぞあなたが、予期できぬ危機を克服する力を与えてください。
主よ
政治や法に携わる人のために祈ります。
上にたつ者が、正義を求め、民の福祉に努めることができますように。
主よ、
平和をつくり出すすべての人を祝福してください。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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