つしまシャロームチャペル
〒700-0086 岡山市北区津島西坂2-5-31(п@086-255-2096) 
 






















*当教会は2013年4月にオープンしたキリスト教プロテスタントの教会です 

*心の安らぎ、平安の満たし、温かいハートフルな教会へ、あなたもお出でくださいませ〜 
*シャローム・今日のみことば* 4月3日(月)

「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」へブル11:29 It was faith that made the Israelites able to cross the Red Sea as if on dry land; when the Egyptians tried to do it, the water swallowed them up. ( Hebrews 11:29)  

【のみこまれない者】昨日の礼拝メッセージは23章後半から、ユダヤ人のパウロを殺す陰謀計画の中をパウロが神に守られながらローマへの道が準備された様子を通して、神様は御心をなされるとき、試練や問題の中にそれを成就していくことがあると教えられました。

私たちは祈りにおいて、しばしば「問題を取りのけてください」と祈ります。しかし神様の御心の道のりとは、私たちが問題のない道を歩むということではなく、問題を通して神様が私たちに明らかにされるということであります。ですから、困難を取りのけてくださいと祈っても、それらは依然としてそこに置かれたままであることが多いものです。

私たちは問題を前にして恐れおののき滅びる者ではなく、神様を信じてイエス様のいのちを保つ者に召されています。問題を通して信仰が神様の前にあきらかにされることにより、私たちは約束のものを得るようにされているのです。   

モーセ率いるイスラエルの民を、奴隷の地エジプトから解放させるために十の奇蹟をなした神が、エジプトの追っ手を去らせることができないはずはありませんでした。しかし神様は追っ手を緩めることなく、イスラエルの民を紅海に追いやります。それは、信仰によって彼らが目に見えない神を見るようにするためでありました。目の前の問題に向かって前進して行くほかに神を見る道はありませんでした。民はそのときにこそ、神ご自身が自分たちのために戦われるということを見ることができるようにされたのです。   

現実に、彼らはモーセが海の上に手を差し伸べ、分かたれた海の真中の乾いた地を進み行くことで、そこに神の栄光を見たのです。神様はこの時、「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」と言い、「主が、あなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙っていなければいけない。」と言われました。これが神の道を行く信仰者への神のことばかけです。神の信仰者にふさわしい姿です。

私たちはしばしば問題を前にして、自分でそれと格闘しながら不平不満の口を開きながら、神に訴えながら乗り越えようとする者です。しかし神の栄光は信仰により、神のいのちによって口をつぐんで前進する道であります。私たちはモーセのように、神に向かって信仰の手を上げ、大いなる神の御力を見る者として召されているのです。信仰がなくては神に喜んでもらうことはできません。神様に近い者とされるということは、神様が報いてくださる方であることを信じて、イエス様のみことばに立って進むということです。

私たち信仰者はいのちの主であるイエス様を目の前にしつつ、自分たちの道のりを走り続ける者であるのです。イエス様は私たちにこのいのちを得させるために、十字架の道を忍んでくださったのです。ですから私たちもそのイエス様の忍耐のお姿にならって、イエス様の復活のいのちをいただいていることを深く求めながら、神の訓練を信じて耐え忍んでいくのです。神様は後になって訓練された人々に平安な義の実を結ばせると約束してくださっています。信仰によって越えた者に、与えられる祝福の実を結ばせるのです。   

今日も、どのようなことがこの一日に待ち受けているのか私たちはその先を知りません。しかしそれでいいのです。復活の主のいのちが私たちにあるのですから、先を知っていてくださる主の御霊によって私たちは忍耐できる者とされているのです。祈りは、「主の御心がこの身になりますように。主の栄光がこの身に現わされますように。」であります。今日の日の忍耐は主の慰めと励まし、御力を知るためのものであります。   今日も皆さんの平安を信じて心よりお祈りしています。

《教会案内》
礼拝   
毎週
日曜日
午前10時半
 
♪賛美タイム
10時〜

聖書教室
毎週
木曜日
午後2時〜
お祈り会
毎週
木曜日
午後4時〜

教会学校「ぽぽ」
幼児・
小学生
 毎週
土曜日午後2時〜

カウンセリング
相談の上、随時受付


     昨日のみことば>
「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」Tテモテ4:8 Physical exercise has some value, but spiritual exercise is valuable in every way, because it promises life both for the present and for the future. (1 Timothy 4:8 )
 

【あわれみの道のり】パウロは年若い教会の指導者テモテに対して、どのような場合にも身を慎んで困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たすように教えています。後の時代には、惑わす霊と悪霊の働きにより 、それらの教えに心奪われ、信仰から離れる人々が出てくることが明らかであるとパウロは呼びかけます。   

たとえば結婚することを禁じたり、食物を断つことで信仰を得させようとする教える人が出てきたとしても、それらは偽善の教えだと言っています。食物に関して言うならば、「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つない。」〃:4とみことばが示す通りです。イエス様の十字架の贖いにより、律法の掟の一切が成就した今日、旧約の律法の掟にとらわれて信仰を守る必要はありません。神様はイエス・キリストの律法の成就を通して、私たちの行ないの一切を受け入れてくださっているからです。   

私たち新約時代の信仰者は、神のみことばと祈りによって聖(きよ)められているのです。神のみことばとは、イエス様が十字架で律法の成就をなしてくださったことを受けとる信仰を指しています。「こと足れり」の信仰です。イエス・キリスト自らが呪われた者となって、罪の呪いを一手に身に負うて死んでくださったがゆえに、私たちイエス様を信じる者は信仰によって既にそれから免れて生かされる者となっているということです。   

ですからクリスチャンと言いながら、まだあれやこれを食べないことで自らを聖い者として建て上げようとするならば、その人はキリストの十字架を無にしていることになり、キリストの死は意味のないことになってしまいます。私たちは自らの体験を聖書のみことばに照らして、聖霊の光のもとで吟味する必要があります。神からの啓示もどこまでが神からのもので、どこからが自分に働く肉的な声であるのか、それを示唆できるのは聖書しかないからです。   

「敬虔」であるということは、キリスト者として身を慎んで生きるということです。それは自分勝手な聖書解釈に溺れず、みことばを取り次ぐ者とともに聖書をよく尋ね求め、聖書からよく教えられ、そのみことばに従って生きるということです。それゆえ私たちは神の教会で、羊の群れのようにしてイエス様に養われてこの世を生きているのです。   

敬虔に生きることがなぜ大切なのでしょうか。それは、いただいた救いの恵みを無にして、救いの恵みから落ちてしまうことのないためなのです。救われたからそれで完了ではないからです。キリストの救いは完全であれど、それを身に受ける私たちがその救いを無駄にする恐れがあるからです。救われ続けて生きることを選ばない道もあるからです。犬は吐いた物に戻り、豚は洗われてもまた泥の中をころげまわるからです。義の道を知っていながら、神の聖なる命令に従うことを拒んで生きるようになるキリスト者もまた現実に現われるからです。  

敬虔のための鍛錬とは何でしょうか。敬虔のための鍛錬があるのです。それは神に従って生きることができるように試練が置かれているということです。そしてその問題の一つ一つをイエス・キリストのみことばに従い、祈りながら越えていく姿勢の中に神が聖霊の油を注いで、耐え抜く力を与えることを経験していくということです。    

神の山に咲く花は、けっして平地で見ることはできません。険しく急な山道のところどころの岩肌に、静かにたたずみ咲いているその花を愛でることのできるのは、赦されて神の山に登る者だけがあずかる特権です。そして一足登るごとに、肉は削がれ、御心だけが心を満たしていくのです。赦された者だけが、敬虔の道の恵みを知るのです。それは神の慰めと励ましを、なおなお深く知る道のりであります。そこにしか咲かない主の花を見ることのできる、神のあわれみの道のりであります。   

ここに少し。あそこに少し。神はみことばを開かせて恵みを注いでくださるでしょう。敬虔の道を歩んだ人に実る御霊の実りをどれほど神様が喜んでくださることでしょう。主の山にはいつもためらいが伴います。忍耐のなさへの失望もあるでしょう。しかし、ここを通してでなければ得られないキリストの品性があるのです。ここを通してでこそ、栄光のキリスト我が望みに出会うのです。主の道を上りながら、私たちは神の愛がどれほど自分に注がれているのかを知るのです。ハレルヤ!希望は失望に終わらない。主の山に備えあり。   

今日も皆さんの上に主の愛が照り輝き、希望の慰めの満ちていることを確信しています。心より主の平安を皆さんの上にお祈りしています。