説教の要約:2009年8月
 
 
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第一主日聖餐式礼拝:2009年8月2日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「ペテロは『鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。」(マタイ26:75)
 
題 「滅びに至る石の心と 命に至る悔い改める心」(マタイ26:57-75)
 祭司長たちと全議会は主イエスを死刑に定めようとしていた。@本来の裁判のやり方にそむくもの。Aイエスに不利な偽証を求めようとしたが証拠があがらなかった。
なぜ主イエスを殺そうとしたか。
 @自分たちの権力基盤を揺さぶられたため。神殿で犠牲を捧げる際、商人や両替人らが横行し利益を得る構造を批判した。(マタイ21:12) 律法が教えられる時も、人の言い伝えであり、神の御心ではないことを批判された(マタイ15:3)。
 A主イエスが癒し、悪霊の追い出し、奇蹟、御国の福音の宣教によって人々の心を掴んでいたため、権力者たちは嫉んでいた。
 彼らは自分たちを守るために、理論武装し〔@律法に違反している。A悪霊によって奇跡を行っている〕、権力をもって封じ込めようとし、最期に抹殺しようとした。心を硬くし、人の教えや考えにしがみつき、神に御心を問わなかった。
 ペテロは、祭司長の庭で「あなたも、あの人の弟子でしょう」と問われた時、それを否定した。自分の罪に定められ、迫害を受けることを恐れたのであろう。その時、鶏が鳴き、主イエスの預言の言葉を思い起こした。ルカは、「22:61 主は振りむいてペテロを見つめられた。」(ルカ22:61)と記している。と同時に、あなたをサタンがふるいに掛ける。「ルカ22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語られた言葉を思い起こしたのではないか。自分を責め立てる者たちに囲まれる中で、自分の惨めさに気付き、しかし主イエスの赦しの眼差し、将来に期待し見守る眼差しに、心から悔い改めないではおれなかったろう。弟子は近づいてきて共においで下さる主に従っていく。
 
 
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第二主日礼拝:2009年8月9日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)
 
題 「主の愛の内におる教会」(ヨハネ15:7-13)
1)主イエスにつながり続けるなら豊かに実を結ぶ。
 主イエスは私たちとの関係をぶどうの木と枝との関係に譬えられた。私たちが主イエスに木につながり、主イエスが私たちにつながっていて下されば豊かに実を結ぶことを約束して下さった。木と枝との間を樹液が流れ、水や養分や木の情報を伝達する物質を循環させ命を保ち、実によって新たな命を生み出す。
2)主イエスの新しいいましめは互いに愛し合うこと。
 主イエスが新たに与えられたいましめは弟子たちが互いに愛し合うことである。
3)主イエスが去って行かれると助け主が来られる。
 聖霊(助け主、弁護者、慰め主)は、主イエスが去って行かれると、天から遣わされる方で、主イエスの教えや話を思い起こさせて下さる(ヨハネ14:26,27)。主イエスの品性の実を結ばせる方であり、御霊の実を稔らせる。〔御霊の実は、愛、喜び、平和(平安)、寛容、慈愛(親切)、善意、忠実(誠実)、5:23 柔和、自制(節制)(ガラテヤ5:22,23)〕 
4)教会は他の人を愛することにおいて上達すべき。
 *愛は感情でなく意志、行為である。
 *愛はあらわされ(感じられ)なければならない。
 *教会は愛と責任の関係を最も大切な中核にすえよう☆☆どうしたら他の人を愛することに上達できるか。
 
1)無条件の愛でその人自身の(存在)を愛する。
2)心の中に他の人のことを思う場所を作る。
3)耳を捧げ、聞くことに献身する
4)同意できなくても同感し、その人の所まで降りる。
5)誉めて励ます。
6)違いを喜び、理解することに時間をかける。
7)いつでも他の人を平等に扱う。
8)共に親密な時間を過ごす(食事)
9)ハグ、体の触れ合いを大事にする
10)感情の銀行口座に預金する。
11)声かけ、笑顔、プレゼント、カード、電話等で愛を表す
12)人に関心を持ち、その必要に敏感に気が付く霊を持つ。
 
 
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第三主日礼拝:2009年8月16日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました』。しかし彼らは言った、『それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい』。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。」(マタイ27:3-5)
 
題 「主イエスに帰らなかった男」(マタイ27:1-10)
☆1)ユダは主イエスの12弟子の一人であった。主イエスを祭司長たちに売った。しかし、主イエスが罪に定められると、「罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました。」と後悔し、祭司長たちの所にお金を返しに行った。しかし祭司長たちはそれを退けた。ユダは銀貨を聖所に投げ入れ、首をつって死んだ。
 
@ユダは本当に悔い改めるべきだった。自分のしたことを後悔したにとどまった。神の前に自分の罪を悔い改めるべきだった。 
A人に解決を求めた。主イエスに解決を求めるべきだった。主イエスは人間の罪を贖うことのできる唯一の方である。その主イエスに背を向けたのがユダの悲しみである。 
B自分で自分を裁いた。神に裁きを委ねるべきであった。
 
2)ユダは12弟子の一人として財布を預かっていた。マリヤがナルドの香油を主イエスに注いだ時、貧しい人の施せるのにと、その行為を非難した。しかし、ユダは財布をごまかし、盗人であったことをヨハネは証言している(ヨハネ12:6)。主イエスが、最後の晩餐で、「私を裏切ろうとしている者がいる。食物を与える者がそれだ。」と言われて、パンをユダに与えた時、他の弟子たちは誰もそれを本当のことだとは考えず、買い物か施しにユダを行かせたのだと思った、とマルコは記している(マルコ13:26-)。人々の目には、ユダは貧しい人々を思いやる、金銭感覚に富む、有能な弟子であると見えていたかもしれない。だからユダが主イエスを裏切ったことは他の人々から見ると、思いもしない出来事であったかもしれない。
 
3)内的癒しの学びに、虐待者のプロフィールという項目がある。頭では本当に人助けをしたいと願っているが、実は心の深い部分では、自分が仕えようとしている相手を通して自分の幸福と満足を見出したいという強い動機に突き動かされていると説明がある。
 
 ユダは神や主イエスを愛するのではなく、自分の楽しみや喜びに仕えていた、従って隣人を愛していなかった。自分で自分を裁き、神に裁きを委ねなかった。主イエスにすべての解決を求めたい。主イエスはすべての罪を贖うためにおいで下さったことに感謝したい。 
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第四主日礼拝:2009年8月23日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」(1コリント13:4-7)
 
題 「神の家族は愛の関係作り」(1コリント13:1-13)
 私たちがキリストの愛に内におること、それは主イエスのいましめを守ることであり、弟子たちがお互いに愛し合うことであった。それは主イエスと父なる神との関係と同じであった。(ヨハネ15:7-12) 神のいのちが、主イエスに注がれ、それが神の家族(キリストの体)の共同体に流れ込み、注がれる。〔ぶどうの木の譬え〕
 神のいのちがそこに流れていることは、聖霊の実(ガラテヤ5:22,23)を結ぶことによって分かり、その第一のものは愛である。愛に顕れる。主イエスは互いに愛し合うようにいましめを与えられた。イエスを主と告白する人々が集まって、神の家族となっていくために、愛において成長することが求められる。
 聖書は神の愛(アガペー)の性質について、1コリント13章に記している。1-3節には、知的に人格的に能力的に道徳的に優れていると見える人について記されているが、しかしアガペーの愛がなければ無益であり、真に人に届き、人を動かす働きとならないことを教える。一見愛に見えているが、実はそうではないことが後で顕れてくる。人間的な愛(エロス)は惨めな結果を刈り取り、天国を刈り取ることはできない。4-7節は神の愛に見られる性質である。様々の状況で自分の感情から出てくる性質を思う時に、これは人間的な性質を努力し訓練しても育って来ないように思える。常に神から、神の御性質を映し出す力を注いでいただかなければ、あるいは神の言葉に聴き続けなければならない。また、一方、自分に正直であることが大切だと私は思う。本当の自分でないものを演じてもその付けがどこかで返ってくる。関東コーチングという集まりで、O師が、他の人を愛することに上達するということについて、
1)無条件の愛でその人自身の(存在)を愛する。
2)心の中に他の人のことを思う場所を作る。
3)耳を捧げ、聞くことに献身する。
等、12項目のことを語られたが(8/9週報説教要旨に記載)、愛の関係作りにおいて、ぜひ取り組みたい内容であった。実際的な視点であると思う。
 
 
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第五主日礼拝:2009年8月30日
 
説教者 加藤篤子師
 
今週の聖句
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」(ヘブル4:15)
 
題 「大祭司イエス様」(ヘブル4:14-16)
 ヘブル人への手紙は、「大祭司イエスがおられるから神に近づこうではないかと言っています。旧約聖書で言われている大祭司の尊い仕事は、イエスこそが本当の大祭司であって、十字架上で血を流し、救いを成就して下さり、またいつでもどんな問題でも、とりなして下さる大祭司なのですと主張しているのであります。
@それで今朝は旧約出エジプト28章より、大祭司の服装について学びます。
◇4節のエポデは大祭司が外部に着ける美麗極まる胴衣のようなもの。袖がなく長さはももの半ば辺りで腰の辺りに帯を締める。この両肩に各しまめのうの板に片方に6支族・片方に6支族の名前が生まれた順に彫り刻まれています。これは全支族を肩に担って、神の前に出る姿です。イエスこそ私たちを肩に担って、御国まで連れて行くお方、また日々の荷を負って下さるお方であります。
◇胸当ては12の宝石3つを4列で12部族を胸に刻み込んで記念し、神の前に出たのです。胸は愛情を示し、イエスは私たちの名をお心にとめて、とりなし給うことを表しています。
◇このイエスは完全な人となられ、罪は犯されなかったが悩み苦しみ弱さを体験されました。故に、「はばかることなく恵みの座に来よ」と招かれています。Aすべてのキリスト者は祭司です。(1ペテロ2:5,9)私たちには大祭司イエスがおられます。私たちはこのイエスを堅く信じて祭司として祈りの尊い奉仕を捧げましょう。
◎祈りについて3つの重要点
1.神の臨在(みことば)をしっかり握って祈る。
2.時間をかけて、祈り続ける。
3.共同の祈りの重要性(2人3人が主の名によって 祈る所にわたしもその中にいる。マタイ18:20)