説教の要約:2009年9月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2009年9月6日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「しかし、ピラトは言った、『あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか』。すると彼らはいっそう激しく叫んで、『十字架につけよ』と言った。」(マタイ27:23)
 
題 「衆愚を捨てて新しい価値観を」(マタイ27:11-26)
1)祭司長や長老たちは主イエスを殺そうと総督ピラトに引き渡した。神の力が彼に顕れ、民衆も彼を認めていたため、嫉んでいた。ユダヤ人の律法に基づく(人間的な解釈によるが)伝統や慣習を守るために主イエス(神が遣わした者)を排除しようとした。群衆を説き伏せて、主イエスを死刑にするように叫ばせた。
2)ピラトは、ローマの皇帝の権威の下で正しく裁判を行うべきであったが、任地において騒動を起こしたくない(保身)のため、群衆の求めに押し切られて、主イエスを死刑にする判決を下した。イエスには死刑に当たるほどの罪はないと判断し、また妻から夢によって義人には関係しないように進言を受けていたが、正義を通そうとはしなかった。
3)ピラトに望まない判決を下させた決定的な力は群衆の「十字架につけよ」という叫びであった。群衆の中には、主イエスによって憐れみを受け、病気を癒され、悪霊を追い出してもらい、福音を聞いた者たちやその関係者もいたであろう(マタイ9:36)。だから群衆は主イエスを赦してくれるように嘆願すべきであったはずである。しかし、ユダヤ人の伝統的な制度や慣習において権力の座にある祭司長や長老たちが、イエスを死刑にするよう声を挙げることを求めてきた時、それに従う選択をした。自分の内なる声に従う確かなものを持っていなかった。
4)主イエスは、不利な証言を並べ立てられても、沈黙された。「ユダヤ人の王」であることを証言されたが、力を持って敵をねじ伏せる王ではなく、神の愛をもって与え、仕え、足を洗うリーダーシップをとる王としてご自分を顕された。イザヤ書53章には苦難を受ける主の僕の姿が書かれている。主イエスは自分を苦しめ殺そうとする者の病や苦しみを負われた。
 私たちもこの世の制度や習慣に追従していると、神の御子を何度も殺してしまう。日々のディボーションを持ち、神の御心を求めたい。
 
 
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第二主日礼拝:2009年9月13日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである。」(1ヨハネ2:13)
 
題 「御国のライフスタイルを求めて」(Tヨハネ2:11-14)
 初代教会のクリスチャンたちは、すぐに神の家族に迎え入れられた。集会のために特別の建物を用いないで、家に集まり、食事を共にして互いに助け合い、みなお互いの必要を知り、補い合っていた。
赤ちゃん・・・ 優しさと愛をもって世話をしてくれる両親に囲まれて成長する。生まれたばかりのクリスチャン。家族(10〜15人まで)に見守られて、育成ケアされる。様々な人がこの家族の中で成長する。赤ちゃんはお乳を飲んで成長する。善悪、罪の報い(永遠の命から断たれる)を知らなければならない。
父・母・・・ @詩篇25:4。父なる神と共に歩んできて、主の道を知っている人。主は私を通して他の人々に奉仕されると知っている。主の臨在を感じ、賛美をもって主を崇める人。A子供を生み出す。失われている人をキリストの下に連れて行く。
若者・・・ サタンとの闘いに勝利する者。偶像崇拝、誘惑やサタンの砦(要塞)に打ち勝つ。2コリント10:4。様々の論議と神の知識に逆らって立つ高いものを打ち砕き、すべてのはかりごとを虜にして、キリストに服従させる。サタンは人々をそそのかして神に対する疑いと不安を起こさせ、神から目を離させて、この世の富や名誉などに目を向けさせることによって惑わそうとする。サタンの要塞は、情欲、高慢、敵意、赦さない心、恨み、嫉妬、貪欲、妬みなど。
子供・・・ 全き信頼を寄せ、純真で素直。分からず危険に足を踏み入れることもある。霊的に未熟なクリスチャン。パウロはガラテヤのクリスチャンのうちにキリストのご人格が形成されるように切に願った(ガラテヤ4:19)。自分自身については、「キリストが私の内におられる」(2:20)子供たちの成長に、御言葉の学びと愛にあって真理を語ってくれるクリスチャンとの関係が欠かせません。
 神の家族の中で、人は愛され育まれ成長する。サタンの策略を知り、闘い忍耐し勝利することを覚える。霊の子供を産み出し、育てる。
 
 
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第三主日礼拝:2009年9月20日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
「主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」(民数記14:9)
 
題 「信仰による近道」(民数記13:25-33,14:1-9)
 出エジプトを果たしたイスラエルの民は、カデシュ・バルネアの地で、主の命により12部族から1人ずつ代表を立て、カナンの地を調査することになった。40日を経て民のもとに戻った調査隊の報告は敗北主義に覆われていた。一部の否定的な意見は集団に大きな影響を与える。民全体に動揺が起こった。その動揺を鎮めたのがカレブだった。(14章6-9節を見ると、ヨシュアもカレブ側に立っていたことが明白) カレブの意見は信仰に基づくものであった。つまり彼は神の約束に判断の基礎を置いていたからだ。
 私たちもこのカレブ、ヨシュアのように、信仰によって決断する者とならなければならない。それには神の言葉に満たされることが大切。神の言葉を心に蓄えることだ。
 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)
 主はみことばを通してわたしのうちにとどまられる。私たちは日々に神の前に静まり、みことばに聴いて行く習慣を持つことが大切である。そして何度でも思い返すことだ。それがないと、いざという時に理性で決断する。みことばを聞いていても信仰と結び付いていかないのだ。
 「カデシュバルネア」とは、「聖なる地」という意味。人生における重大な決断をする時、私たちは人生の「カデシュ・バルネア」に立たされている。それは理性で決断するか、神の言葉に基づいて信仰で決断するかを迫られる地なのである。
 あなたはどちらで決断するか?
 
 
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第四主日礼拝:2009年9月27日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、「他人を救ったが、 自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。」(マタイ27:41,42)
 
題 「御国をもたらす王 イエス」(マタイ27:27-44)
 主イエスの罪状は、「ユダヤ人の王」と書かれた。
 兵士らは、「ユダヤ人の王、ばんざい」と嘲弄し、肉体的にも精神的にも極度の暴力と屈辱を与えた。通りがかりの人、祭司長らも、「ユダヤ人の王なら、神の子なら、自分を救え、十字架から降りて来い。」とののしり、愚弄した。敵を打ち倒し、力と権力を働かせる王を人々は求め続けた。しかし主イエスはそれに答えず沈黙されたままであった。
 マタイ福音書は王としての主イエスを描く。イエスの誕生を祝った博士たちは、ユダヤ人の王全人類の王として生まれた方(マタイ2:2)として主イエスを拝んだ。荒野の試みでサタンは「神の子であるなら、石をパンに変えよ、神殿から飛び降りてみよ」(マタイ4:)とその権威と力を知りつつ誘惑したが退けられた。主イエスは捕らえられた時、天のみ使いを送ってもらう権威を持っていたが、それをされなかった。(マタイ26:53)
 主イエスは嘲弄され、心身共に苦しみを受け、苦しみに甘んじつつ、神から託された預言を成就し、御国の支配を実現する王、救い主としての働きを顕された。(「父よ彼らをお赦し下さい。・・・」(ルカ23:34))サタンの誘惑が最も激しい十字架のみ苦しみにおいてこそ、仕え与える王として遣わされた御国の価値観を顕された。イエスがまことの王であることが、十字架の死後、復活されることによって顕され、イエスを信じ、従う者に御国が与えられる道が開かれた。
 クレネ人シモンは主イエスの十字架を無理矢理負わされた。マルコはシモンをルポスらの父(マルコ15:21)と書き、またルポスはローマの教会のよく知られた信徒であった(ローマ16:13)と考えられる。これらを考え合わせると、シモンが無理に十字架を負わされたことを通して、家族がクリスチャンとなり、主の教会に仕える存在となった。主イエスは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために、自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ16:24,25)と言われた。自分に課せられた十字架を負うことによって、キリストの弟子としての自分の価値や命を見出す。命を捨てることによって永遠に失われない命を得る。