説教の要約:2010年3月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2010年3月7日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。(ローマ15:2)
 
題「互いに建て上げ合う関係」(ローマ15:1-6)
 オイコドメオーは、オイコスを語源とする言葉で、建て上げると訳されます。建物を建てる時に使われる言葉ですが、仲間のクリスチャンを建て上げるという意味にも使われます。他の人々を建て上げることによって主に仕えるという大切な概念を教えてくれるものです。細胞グループのメンバーを通して、互いに建て上げ合うことが神の切なる願いです。
 神の家族は、神が合わされた家族であり、負い合い支え合う共同体です。イスラエルの民に中にあった罪によって、民全体が影響を受けた。〔アカンの罪(ヨシュア7,8)〕私たちが神といつも親しい交わりを持ち続けることができるように、神は御子を送って下さった。罪を滅ぼし、葬る場所、栄光の十字架を与えて下さった。罪を認め、告白し、赦しが宣言される。キリストの赦しの血が注がれる、悪しき習慣や思いを十字架に付け、キリストが栄光を勝ち取られた十字架が私たちの魂に光りを注ぎ、キリストの甦りのみ姿が輝き出で、復活の命が注がれる。その時、私たちは新しい思いで、敗北の地や舞台に赴くことができる。私たちが弱くても、主が強ければ恐れはあらじ。ハレルヤ、アーメン。この神の家族(オイコス)の中で、賛美し、告白し合い、祈り合い、御言葉によって建て上げ合う。仲間を通して主の霊が豊かに流れ込み、清め、正し、励まして下さる。それぞれ遣わされている所で、孤独な闘いがあり、弱り、傷を負うことも多い。お互いを通して回復し強められ、訓練し合う共同体を造っていきたい。
 この共同体の中で、賛美し、教え、預言を語り合う。お互いを建て上げ合う関係を深め継続したい。
 
 
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第二主日礼拝:2010年3月14日
 
説教者 加藤篤子師
 
今週の聖句
「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。(詩篇23:4)
 
題 「むちとつえの慰め」(詩篇23:4)
 ダビデはサウル王に召し出されるまで羊飼いでした。彼は羊飼いの心・羊の性質をよく知っていました。
〇羊は目が弱く迷いやすい。角(つの)は丸く戦えません。しかし長所は羊飼いの声を聞き分ける。羊飼いについて行くことができることです。イエスは、「わたしは羊の門である。羊は彼の声を聞く。そして彼は羊の名を呼んで連れ出す(ヨハネ10:3,7)。」と言われました。イザヤ30:18には、恵もうと待っておられる神を見ます。朝毎にあなたの名を呼ばれる主の前に出ているか反省して、聖書を読み味わい祈る祭壇を築き直しましょう。
○羊飼いは時には昼なお暗い死の陰の谷を通過せねばなりません。そのような時、彼は歌を歌い、あるいは、持っている鞭(むち)や杖で岩角(かど)や樹木を打ちつつ進み行きます。これによって羊らは牧者と共にあることを知って、恐れることなく安心し力づけられて進んでいきます。
○「あなたのむちとあなたのつえがわたしを慰めます」。なぜむちやつえが私を慰めるのでしょうか。私たちは日常生活の中で時に神から裁かれていると感じることがあります。神の私への「懲らしめ」だなと思うこともあります。がその懲らしめには大きな意味があります。もしそれがないと最後には罪に定められねばならないから最後まで罪を持っていかないため今懲らしめられているのです。こんな時はマイナスだけしか思わないが、懲らしめ、むち打たれることで神は私を正しい道に導いて下さるのです。
 天地宇宙を創造し支配なさる偉大な神様(三一の神)が、羊飼いのように私たちを導き慈しみ給うお方であることを感謝し、どこまでもお互い励まし合いながら、主にお従いしましょう。
 
 
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第三主日礼拝:2010年3月21日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。(創世記3:6)
 
題 「神との関係を壊すもの」(創世記3:1-24)
 最初の人であるアダムとエバが神の戒めに背き、罪が人類に入ったが、その罪の性格を知り、悔い改め、その支配から逃れさせて頂きたい。
1)1)誘惑者である蛇(サタン)は、@神の言葉をゆがめた。蛇はすべてを禁止されたかのように言った。A神の言葉に疑いをはさんだ。「・・・ほんとうに神が言われたのですか」 B神の御言葉を否定した。「決して死ぬことはないでしょう。」 C神の愛の真実を疑わせた。「・・・あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる・・・」神の利己的な動機によると思い込ませようとした。
2)誘惑された女は、@助け手として男に相談すべきであったが、自分で判断した。A神の御言葉を曖昧にした。「・・・これに触れるな、死んではいけないから・・・」 。御言葉を曖昧にし、加えたり差し引いたりしてはいけない。(黙示録22:18,19) B自分の感覚を誤用した。「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ・・・」。これらの感覚――食欲、美的センス、知的欲求――は神によって造られたもの。神の栄光のために用いられたら良いものであるが、自己中心的な思いで見るとその欲望に支配され、それが偶像になる。
3)男も神との関係を正しく保つことよりも、妻との繋がりを重んじ、罪における連帯性を指向した。
2)1)罪の結果、裸であることが分かり、神を避けて、身を隠した。神に応答する者として神との関わりに置いて自分を知る時、自分を素直に受け容れられるが、神との関わりに歪みが生じてしまうと、人は神から離れて、自分自身の中に価値を見出さなければならない。自分の中に絶対的な価値を見出せない。弱い自分を知って、それを受け容れることができず、恥を感じる。
2)「いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」自分を取り繕い、偽りの自分を、神に、人に、自分自身に出そうとする。
3)1)主は人に、「あなたはどこにいるのか」と男に呼び掛けられた。行動より先に在り方を問題にされた。神との関係における心の在り方を問われた。
2)悔い改めへの招き。神との正しい関係における自己認識から離れて、サタンに従い、サタンが与えた「知識」によって自分を見る時、その裸は惨めでむなしい。サタンが与えるものは惨めであることを示そうとされた。また罪の根源はサタンにある、サタンこそ裁きに遭うべきであることを示して、人を悔い改めに導こうとされた。
4)責任の転嫁。     5)さばきと救い。
 
 
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第四主日礼拝:2010年3月28日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。(マタイ27:46)
 
題 「我らのために絶望を通られた主」(マタイ27:35-54)」
 十字架上での第4言。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 主イエスはいつも父なる神と共におられ、父の言葉を語り、業を行い、働いておられた(ヨハネ福音書)。その主イエスが父なる神の御顔を見失っておられる。主イエスは、私たちに代わって、死よりももっと恐ろしい罪が生んだ極限状況に立って下さった。地獄を見ている。黄泉に降って下さった。死ぬことだけでなく、死の苦悩を味わわれた。私たちに代わって罪の償いをする神の法廷に立って下さった。神に見捨てられ、神の敵になったかのように、良心の不安の苦しみを味わわれた。「神に裁かれている、捨てられている。」今までには全く見られなかった主イエスのお姿である。「彼は我々の罪のゆえに神の御手によって打たれ、我々の不義のゆえに傷つけられた。」(イザヤ53:4)
 詩篇22:1には、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」主イエスが詩篇を愛唱して、この言葉を語られたのかもしれない。メシヤの苦難を預言する御言葉。敵に責め立てられ、苦悩の中でもがきつつ、しかし神の御名を呼ぶことをやめない、やめられない人の姿がある。
 主イエスが私たちに代わって、神の裁きを受けて下さった。怒りを受けて肉が割かれ血を流して下さった。罪の代価が支払われた。だから主イエスの贖いを信じる私たちは恐れることなく、神の御前に立つことが許されている。
 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)。私たちは立派な十字架を負おうとしていないか。主イエスは、「わが神、・・・・」と弱さを持ち挫折する者の叫びを挙げて下さった。本当は私たちの叫びであるはずであった。様々の困難や試練の中で、私たちも同じ叫びを挙げればいい。立派な十字架を負わなくてよい。私たちのもっと深い所で神の御子主イエスが重荷を負って下さっているから、黄泉にまで降って、低い所に立って下さるから、恐れる必要はない。主の届き得ない闇はない。降り得ない低い所はない。
 
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