説教の要約:2010年7月
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第一主日聖餐式礼拝:2010年7月4日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。」(1コリント14:3,4)
題「教会の徳を高める預言をせよ(Tコリント14:1-5,12,24-26)
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第二主日礼拝:2010年7月11日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、『目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。』」(創世記13:14,15)
題「ロトの選択・アブラムの選択」(創世記13:1-18)
アブラムは後にアブラハム(多くの国民の父の意)の名を神から得、また信仰の父と呼ばれる人となった。アブラムをそう呼ぶ人の数は、数え切れず、神の約束の実現を見る。なぜアブラムがそのような祝福を受けたか。それは節目において彼が神の約束を握り、神に信頼し従ったからである。彼は欠点のない人というわけではなかった。だが失敗した時、神に立ち返り、謙遜に神の約束を信じ、神を礼拝し、神に捧げいった人であった。
アブラムと甥のロトがエジプトからカナンの地に帰ってきた。家畜の牧者間の争いが高じ、アブラムはロトに分かれて住むように地を選ばせた。ロトは牧草や穀物の豊かであるヨルダンの低地をことごとく選び取り、アブラムは反対側の高地で荒れ地を受けた。アブラムは年長であり、また共についてきたがゆえにロトも祝福を受けたことを考えれば、ロトはアブラムに選択権を委ねるべきであったが、アブラムは謙遜な人であり、神に信頼する人であった。ロトの選んだソドムの人々は悪く、神に背く人々であり、ロトは様々な試練や滅亡に巻き込まれ、後に結果的に全てを失うこととなった。
一方アブラムは、神から、「この地をあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くする」という約束を受け、これは後に実現した。
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第三主日礼拝:2010年7月18日
説教者 加藤篤子師
今週の聖句
「神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。」(使徒行伝16:10)
題「御霊の言える如くせよ」(使徒行伝16:1-15)
本日の箇所は使徒パウロがシラスと共に第二次伝道旅行に出発する所です。第一次伝道旅行の時に迫害に遭ったルステラに寄り、青年テモテを見出し加え、先の伝道地西アジア各地を巡回しようと勇み立ちました。6節、彼らは御言葉を語ることを聖霊に禁じられました。宣教を断念して北上し、アジア州の最北部ムシヤ近くまで来たが、7節、イエスの御霊が許されなかった。そこで予定を変えて、港町トロアスに来ました。10節、海の向こうの欧州より一人の人が立って、「マケドニヤに渡ってきて助けて下さい」の懇願を聞き、ただちにマケドニヤに渡って行くことにしました。聖霊は二度までも行く先々の伝道を押し止めましたが、大きな神のご計画へと導かれたのです。パウロたちはトロアスの港より出発しました。偉大な欧州伝道の第一歩はこのように成し遂げられました。
使徒行伝は聖霊行伝とも言われています。三位一体の聖霊様はどのようなお方でしょうか。聖霊様は神ご自身であられるお方です。イエス様が天に戻られた後、この地に送られた「助け主」としてイエス様と全く同等同質なるお方です。このお方は人の内に住み、目に見える形で働かれるお方です。イエス様を救い主として受け入れた人の内には例外なく誰の内にもこの聖霊様が住んで下さっています。このお方に心の部屋のドアを全部開いて、「ご自由にお入り下さい」と告げましたか。「この部屋は立ち入り禁止です(私のものです)」と書いたドアはないでしょうか。聖霊様は、そのドアの中にも入りたく願われています。(エペソ4:30、1テサロニケ5:19も開いてみましょう。)
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第四主日礼拝:2010年7月25日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげら れた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:20)
題「主のみ声を聞こう」(ガラテヤ2:19-20)
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