説教の要約:2010年8月
 
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第一主日礼拝:2010年8月1日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』。アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。(創世記15:5,6)
 
題「信仰義人」(創世記15:1-6)
1)(15:1-6)。アブラハムは年老いてきていたが、まだ子供が与えられていなかった。(おそらく80代半ば)。主は、あなたの身から出る者が後継ぎとなり、その子孫が空の星の数ほどにも無数に増えると約束された。アブラムは自分の状況や世の常識からは絶望的に思えたであろうが、神を信じた。神はそれをアブラムの義と認めて下さった。「ローマ4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」自分の内側を見つめてもそこに信仰を見出すことはできない。むしろ不信仰、不敬虔な者であることに気付くのみである。しかし、目を主ご自身に向ける時、恵みによって不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じることができる。真のアイデンティティーは自分の内側に発見するのではなく、むしろ自分に絶望し、主を信じた時に、主の恵みの中にある自己を発見することにより確立する。(ローマ4章、ガラテヤ3:6,ヤコブ2:23)
2)主の導き手としての顕現(15:7)。主は、アブラムと契約を結ばれた。動物を切り裂き、契約を交わす者がその間を通り、その契約を守らなかったら、自分がその動物のように切り裂かれてもよいという契約である。契約の内容は、アブラムの子孫が400年、エジプトで仕え、財産を携え帰ってくるというものであった。人間は将来の自分を保証し得ない。主のみが一方的に祝福の契約を与えて下さった。(15:7-18)
3)16章。サライは自分に子供が与えられず、主がそうしておられると考え、自分の仕え女ハガルによって子を得ようとし、夫に妻として与えた。妊娠したハガルがサライを軽んじたので、サライはハガルを苦しめ、ハガルが逃げ出す、家庭内紛争が起こった。人間の常識や知恵は問題を引き起こした。アブラムの信仰は行いにおいては不十分であったが、神は再び契約を与え、導かれた(17章)。 
 
 
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第二主日聖餐式礼拝:2010年8月8日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
ダビデはアビガイルに言った。『きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。』」(1サムエル25:32)
 
題「力あるとりなし」(1サムエル25:1-42)
 大資産家ナバルのもとに、ダビデは、平素ダビデと部下たちがナバルの家畜を守ってきたという実績に基づいて、寄附をもらうことを期待して、使者を遣わした。その丁重な申し出に対し、ナバルはダビデを侮辱した。その知らせを聞いたダビデは激怒し、400人の部下を率いて、ナバル討伐に立ち上がる。
 このことを察知したナバルの使者は、彼の妻アビガイルに事の次第を告げ、すみやかに和睦することを勧めた。即刻、アビガイルはダビデへの贈り物を整え、彼のもとに下り、とりなしの言葉を語る。
@力あるとりなしとは、主を礼拝すること。
 アビガイルが「ダビデの前で地にひれ伏し・・・」と、これは私たちが神の前に出る姿。私たちは、神の愛と恵みに感動する時、おのずと心はへりくだり、ひれ伏し、賛美するのではないだろうか。アビガイルは、これは自らの罪だと語り、赦しを願う。祈りは、私たちの主が罪を贖って下さったから可能になったことだ。それ故、とりなしを人間的同情心で神の前に行き、神に求めることだと考えてはいけない。
A神の御心が与えられる。
 アビガイルはダビデに復讐を思い止まらせるために、一般人の知り得ないはずの、ダビデについての神の計画を語っている。(28-31)。彼女が聡明であるとは、普段から神の御心を知る訓練と、神が示された時にしっかりと受け止め、発信する勇気があったことだ。神のみこころは、聖書の中に表現されている。み言葉について考えれば考えるほど、日々の祈りで神の御声をよりはっきり聞き分けることができるようになってくる。怒りのあまり霊の目が閉ざされていたダビデは、アビガイルのとりなしの言葉を聞いて、自分を取り戻す。彼はイスラエルの神、主をほめたたえている。
 
 
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第三主日礼拝:2010年8月15日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、『誘惑に陥らないように祈っていなさい。』と言われた。(ルカ22:39,40)
 
題「主の御声を聞こう」(ルカ5:16,6:12,21:37,22:39-46)
 ルカ5:16。主イエスは父なる神との交わりを大切にされた。群衆が主イエスの下に押し寄せてきたが、寂しい所に退いて祈られた。
 ルカ6:12。12弟子を選ばれる時、主イエスは山へ行き、夜を徹して神に祈られた。弟子の育成は主イエスの働きにおいて非常に大切であった。ヨハネ6:70には、神が弟子たちを選ばれたことが記されている。
 ルカ21:37。十字架の死を目前にして、主イエスは、昼は宮で教え、夜はオリーブ山で祈ることを常とされた。主イエスは祈りにおいて準備された。
 ルカ22:39-46。ゲツセマネの祈り。最後の晩餐の後、いつものようにオリブ山へ行き、いつもの場所で祈られた。ルカ22:42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」主イエスがこの苦悩の祈りを通り、勝利されたから、十字架に向かって突き進まれ、復活された。主イエスは、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイ6:10)の祈りを教えて下さった。主イエスご自身が十字架を負い、父なる神の御心に従って、十字架を負いぬいて下さったがゆえに、私たちもこの祈りをすることができる。この祈りにこそ勝利があることが分かる。
 主のみ声を聞く場を確保しなければならない。主は私たちの意志に語られ、なすべきことを示される。悩みの時に平安を、のんきにしている時に胸騒ぎを起こさせ、記憶に働きかけて必要なことを思い起こさせて下さる。主に聞くことの優先順位を第一として、そのように生活を整える、組み直すことが大切です。 
 
 
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第四主日礼拝:2010年8月22日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/『わたしは全能の神である。あなた はわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、/大いにあなたの子孫を増すであろう』」(創世記17:1,2)
 
題「約束を実現される全能の神」(創世記17:1-8)
1)「全能の神」とは、「エール・シャッダイ(乳房)」(ヘ)であり、力と祝福を注ぎ出すという意味を持つという説もある。この御名によって、人にはできなくても神には何でもできるご自身を示された。
2)「わたしの前を歩み、全き者であれ」。完全な者、欠点のない者という意味ではない。主のみ顔を意識し、主の臨在の内に主の恵みによって生活する、すべてのことを主との関係の内に捉えて生きること。欠点だらけの人間であっても、「全き信仰をもって神に応答する者であれ」と言われている。
3)全能の神、創造主なる神が、へりくだって不完全な人間と契約を結ばれた。あなたの子孫を大いに増す。アブラム(高められた父)から、アブラハム(多くの国民の父)という新しい名を与えられた。名は体を表す。主が新しい名を与え、その名のように変えて下さることに希望がある。後の代々の子孫との契約、カナンの土地を与える契約を結ぶ。
4)神は契約のしるしとして、アブラハムと代々の子孫、属する者に割礼を施すことを命じた。割礼とは、男性性器の包皮を切り取ること。後に割礼は形式化し、割礼そのものが特権化されていく。しかし、主が求めたのは、「心の割礼」、心砕かれて、心から主に信頼するようになることであった。(申命30:6)5)行いによるのではなく、信仰によって義とされる。(ローマ4:5、16)。アブラハムは信仰によって義とされ、その証印として割礼を受けた。(4:11)。死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた。望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。・・・・だから、彼は義と認められた。(ローマ4:17-22)
6)サライがサラ(王女)の名を与えられ、アブラハムの子孫の母となることを明言された。
7)主が三人の旅人となってアブラムに現れ、子供の誕生を預言した。(創世18:1-15)
8)預言の成就。イサクの誕生。(創世21:1-7)
 
 
 
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第五主日礼拝:2010年8月29日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(2テモテ3:16)
 
題「御言葉を通して御声を聞こう」(2テモテ3:1-17)
1)聖書は多くの人々によって書かれているが、聖霊の導きによって書かれている。聖霊はあなたの内におられ、聖書の著者たちの内にもおられ、御言葉を記録させたお方である。聖書の著者は聖霊を私たちに送られたキリストなのですから、あなたの心に直接語られる導きやみことばが聖書に矛盾することは決してありません。聖書はいつも、あなたへの神の語りかけにさらに確信を与えてくれるのです。父なる神、キリスト、聖霊からの語りかけが、聖書と矛盾することは決してありません。(ルカ24:32,ヨハネ5:39,40)
2)私たちは聖書を読む時、その真理をまず「知性」で理解し、その次には「心」で受け止めます。神の語りかけを知性と心の両方を集中させて主を求めるときに、ご聖霊の語りかけ(主のみ思い、主のみこころ)が、私たちの心に直接深い感銘を与えます。主の臨在を感じたり、神を礼拝し崇めたり、罪の告白に導かれたり、主の働きのために特別な召命を受けたり、主の奥義を体験したりします。また、神様から問題や悩みに対する答えが与えられたり、救いのために祈ってきた人にキリストを証しする知恵が与えられたり、細胞グループ・メンバーや自分の家族のために励ましの言葉が与えられたりします。
 
 
 
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