説教の要約:2011年2月
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第一主日聖餐式礼拝:2011年2月6日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして彼は恐れて言った、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』。」(創世記28:16,17)
題「臨在、神の家、天の門」(創世記28:1-22)
1)リベカはエサウからヤコブを守るため、兄ラバンの許に行かせようと考えた。エサウがめとったカナン人の妻たちに対する不満を理由に、ヤコブにはラバンの娘をめとらせようとイサクを説得した。イサクはヤコブを祝福してハランに向かって送り出した。
2)日が暮れて、ヤコブは夢を見、頂が天に達するはしごが立ち、神の使いたちが上り下りしていた。そして主が、アブラハム、イサクの神として顕現され、アブラハムに授けた契約の祝福をヤコブに継がせることを宣言された。@今伏している地を彼とその子孫に与えること(土地供与)、A彼の子孫がちりのように多くなり、東西南北に広がること(子孫繁栄)、B地の諸族は彼とその子孫によって祝福を受けること(祝福の基)、C彼と共に居られること、Dどこに行くにも守られること、Eこの地に連れ帰ること、F約束を実現するまで決して彼を捨てないこと、を約束された。アブラハムに与えられた祝福がヤコブに受け継がれた。ヤコブは恐れつつ、この場所を神の家、天の門と呼んだ。
3)ヤコブは枕としていた石を立てて記念の柱とした。臨在と守り、衣食の供給、無事に父の家に帰してくれるなら、主を神とし、その石の柱を神の家とし、すべての十分の一を捧げる誓いをした。
1)主イエスはインマヌエルの名を持つ方としてこられた。イエスが居られるところに神が共においで下さる。 2)イエスが神を父として表して下さり、また私たちの兄となって下さった。主イエスを信じる者を神の家族に迎えて下さった(エペソ2:19)。 3)主イエスは、「人の子の上に御使いが上り下りするのを見る」(ヨハネ1:51)と言われ、ご自身を「道、真理、命」、「羊の門」をして表された。主イエスを通して天が開かれ、神を知ることができる。
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第二主日礼拝:2011年2月13日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「『先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』。・・・・『「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。また、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」とあります』」(ルカ10:25,27)
題「永遠の命を得る道」(ルカ:25-37)
1)律法学者が主イエスに何をしたら永遠の命が得られるかを問うた。神が与えて下さる永遠に生きる命はどのような生活をすれば頂けるのか。主イエスは律法にどう書いてあるかを問い返された。
2)全力を尽くし全存在を賭けて神を愛すること(申命6:4,5)、自分を愛するように隣人を愛すること(レビ19:18)だとの答えに主は同感し、あなたもそのようにしなさいと言われた。
3)神への愛、自分への愛、隣人への愛。愛とは相手との関わりである。相手を突き飛ばし敵する関係か、互いに幸せになり祝福しようとする関係か。
@神との関わり。神に造られ、生かされ、支配されている存在である。
A自分との関わり。自分を本当に愛しているか。自分を受け入れ、生かす関わりをしているか。自分に腹を立て、自分の弱さや貧しさ、欠けを責め卑下し、見捨てていないか。それに打ち勝ち自分を本当に愛することができるために信仰が問われる。
B隣人との関わり。自分を本当に愛すると、同じように隣人を愛することができる。隣人との関わりに正しく生きるようになる。
4)共に生きる神を、自分を、隣人を正しく愛することが永遠の命を得る道であると言われた時、この律法学者は自分の立場を弁護して、「隣人とは誰か」を主イエスに問うた。自分は隣人を愛しているのかということに疑問を感じていた。隣人を選んでいないか。愛するに値する隣人は愛するが、そうでないと愛さないことになっていないか。この問いに対して、主イエスは憐れみ深いサマリヤ人の譬え話をされた。
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第三主日礼拝:2011年2月20日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる 信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」(ピリピ3:8,9)
題「律法によらず恵みによって」(ピリピ3:1-16)
1)割礼を受け律法を行わなければ救われないとするユダヤ主義的信仰が教会に入り込むことに、パウロは警告を与えた。神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない者こそ、真の神の民である。
2)パウロにこそ誰にも誇れる肉の頼みがあった。しかし、それらはキリスト・イエスを知ることの素晴らしさからすればマイナス、塵芥と思えるようになった。血筋や経歴においても誰にも負けないパウロであり、律法の行いにおいて誤りのない者であった。しかしそれに進めば進むほど自分の内に欲する善を行わないで、欲しない不善を行う罪が自分の内に起こってきて、惨めにならざるを得なかった。その律法を行えない自分の代わりに主イエスが律法を全うし、律法を行えない者のために死んで甦って下さった。イエスを信じる信仰によって義とされ、神の義を与えて、キリストのものとして下さった。
3)キリストを信じる者はキリストの復活の力に与る。罪の力、悪(サタン)の力、黄泉の力が働いてきて、様々な苦難に出遭うが、そこでキリストの苦難、死のさまに等しくされることにより、復活に達したいというのがパウロの願いであった。それを一途に求め、神の賞与を得ようと前進した。パウロがUコリント11:24ー33に表している試練の中で教会を建て上げるために奔走した原動力がここにある。
律法が示される時、それに敵する人間の心、善を行えない罪の力に支配される人間の惨めさ、それを打ち破るために御子が死んで甦られた、そして聖霊がそれを成し遂げて下さったことをローマ7,8章から学んだ。
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第四主日礼拝:2011年2月27日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「主イエスの名によるバプテスマを受けた。」(使徒行伝19:5)
題「主イエスと結ばれた人」(使徒19:1-10)
伝道者パウロは3回目の伝道旅行で、小アジア州首都で宗教都市であるエペソに来た。そこで最初に出会ったのは、聖霊の存在を知らないアポロの弟子たちだった。
@信仰上の欠陥
彼らはヨハネのバプテスマしか受けておらず、聖霊を受けていなかった。ヨハネのバプテスマは、今まで犯した罪を悔い改めて、赦してもらうものである。罪は人間にはどうすることもできないものである。多くの人は善行を積めば罪が消えると思っている。しかし、人間には自分の力で処分し清めることはできない。主イエスはそんな私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、罪を処分し、清められる道を開いて下さった。
Aイエスの名によるバプテスマ
しかし過去の罪が赦されただけでは本当の解決ではない。パウロはイエスの御名によるバプテスマをアポロの弟子たちに授けたところ、彼らは賜物として聖霊を受けた。神のいのちに新しく生かされる者となったのである。主は私たちに命を与えるだけでなく、「それを豊かに持つ」ようにと言われた。(ヨハネ10:10)
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