説教の要約:2011年9月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2011年9月4日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、『水の中からわたしが引き出したからです』。」(出エジプト2:10)
 
題「水の中から引き出された者」(出エジプト1:15-2:15)
 出エジプト記はイスラエルの民が奴隷の地であったエジプトを脱出する記録であり、40年の荒野の生活を経て、神の約束の地に行く民族大移動の歴史の初めである。この働きの指導者にモーセが用いられた。この人は神の不思議な摂理の中から救い出され立てられ、用いられた人である。
 ヨセフを知らないエジプトの王が起こり、イスラエルの民が非常に増え、強くなってきたことに危機感を覚え、支配を強め、厳しい労働を課した。その苦しみの叫びが神に達した。王は助産婦に、イスラエル人に生まれた男の赤子を殺すように命じたが、彼女たちは神を畏れて王の命令に従わず、この民は増えていった。神はこの助産婦たちを恵まれ、家を栄えさせられた。王はついに生まれた男子はナイル川に投げ込めという命令を出した。
 あるレビ人の夫婦が男の子を授かり、3ヶ月間育てたが隠しきれず、籠の中に入れ、ナイル川の葦の中に置いた。パロの娘が拾い上げ、ヘブル人の子供と知って憐れみをかけ、自分の子として育てようと考えた。その様子を見守っていた赤子の姉がパロの娘に乳母を紹介し、実の母を連れてきて、この子が成長するまで実の家族によって、王の娘から報酬を受けながら育てられた。成長して、パロの娘の子供として育てられ、エジプトの優れた教育を受け、リーダーとしての力を付けた。使徒行伝7:22
 40歳になって、モーセはヘブル人がエジプト人に虐待されているのを助けて相手を殺した。ヘブル人の喧嘩の仲裁に入ったが受け入れられず、パロの怒りを恐れて、ミデアンの地に逃げた。同胞を助けたい思いを持ったが、神の時ではなかった。ミデアンの地で羊飼いとなり、ミデアンの祭司の娘と一緒になって子を設けた。ここで40年の時を過ごした。
 
 
 
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第二主日礼拝:2011年9月11日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイ6:22,23)
 
題「全身を明るくする内なる光」(箴言20:20、マタイ6:22,23,ヘブル12:14,15)
 苦い根(苦々しい思いや裁く気持ち)が心に潜んでいると、神をとらえる視点が歪み、神との関係がうまく行かなくなる。子供が、父母あるいはその子供の養育に関わった者をどのように見、受け取っていたかがその子供の成長してからの感じ方や見方に大きな影響を与えている。その養育者を通して他の人を見、神を見るようになっている。父母を裁いていると、人を同じ目で裁き、父母を軽んじていると、神をも軽んじる。自分の裁く罪を悔い改める時、神の祝福が豊かに注がれるようになる。
 
 
 
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第三主日礼拝:2011年9月18日
 
説教者 加藤篤子師
 
今週の聖句
神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコブ4:6)
 
題「砕かれた者になりたい」(ヤコブ4:6)
 へりくだることは。一般に私達の間では控え目なこと、下座(しもざ)に着くなど人間関係のことを思いやすい。聖書は神と人との関係において謙遜であることを教えています。そしてそれができる時、人間関係においても本当にへりくだることができると思えます。
◇イザヤ57:15で神は心砕けてへりくだる者と住むと言われています。「砕けた心。砕かれた心」とは?
榎本師は、「いっさいの思いわずらいを神にゆだねる。それがへりくだることであり、砕かれることである」と。
◇詩篇51:16,17には神が世界で一番喜ばれるのは砕かれた悔いた心(・・・・・・・・)であると言っています。
◇黙示録16章は罪に対する神の怒りが7つの鉢に満ちてその鉢が天において傾けられると、この地において神の恐るべき審判が実行されていく幻をヨハネが見て書いた章です。9節〜21節を見ると、神は大患難と言われる中でも悔い改めるなら救われる者を起こす機会を与えて下さっています。しかし苦しみの余り舌をかんで死のうとしても悔い改めようとせず、神に汚しごと(冒?(ぼうとく))を言い続けています。榎本師は、「キリスト教無神論者がいます。神の言葉は聞くが、自分の思いや判断でそれはできない、それは無理だと言いやすい。それは神を冒?している事と同じである」と。信仰生活の中で最後のものは砕かれない人間の頑固さです。もしあなたの心が誰の目からも明らかに見えたら、それを承知であなたを愛してくれる人があるでしょうか。でもイエスはそれを百も承知で、その心が砕かれるならばと十字架に架かって下さったのです。その大きな犠牲の愛を唯々へりくだって受け入れましょう。その時、主は平安と喜びを満たして下さいます。一歩一歩主にあって進みましょう。それが砕かれた者の歩みです。
 
 
 
 
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第四主日礼拝:2011年9月25日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」(ルカ13:8,9)
 
題「結実を待つ園丁の愛と執り成し」(ルカ13:1-9)
 不慮の出来事や災難が起こった時、神の意志を問いたくなるが、事故に遭った人々が特に罪深かったからではなく、皆が悔い改めるべきことを主イエスは人々に勧めた。ヨブ記に出てくる友人はヨブに因果応報により悔い改めを迫ったが、この世の悔い改めは裁きを招かない行いや善行に向かい、神に向かわない。
 主イエスはいちじくの譬えにより神の御心を教えた。ぶどう園に植えられたいちじくは3年経っても実を結ばせず、土地を塞いでいるため、主人は切り倒すように命じた。しかし園庭は、もっと手を尽くしたら実を結ぶかもしれないので、待ってくれるようにいちじくを弁護した。
 神の民であるイスラエルが神の園ぶどう園に植えられて、長い時を経ても実を結んでいない。神が求めておられる義と愛と平和を生活の中につくり出せているか。人と自分を見比べて自負したり卑下したりする生活ではなく、不幸、苦しみ、悩みを共に担いながら神の憐れみを信じて生きる、そういう本当の信仰と愛と希望が、この民の中に見出せるだろうか。最も深い罪は自分の犯している罪に気付かないことであり、神の栄光を現す者となるために、悔い改めから始めなければならなかった。
 園丁は実を結ばないいちじくをさらに手入れをするようにかばった。主イエスはイスラエルの民をかばい、いちじくの木に押し倒されるように十字架に架かり、「父よ、彼らをおゆるし下さい」と執り成しの祈りを捧げて下さった。この主イエスの執り成しによって、悔い改め、やり直すことが赦されている。主イエスは死んで甦り、天から聖霊を送って下さり、新しい命に生きることが許されている。
 
 
 
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