説教の要約:2011年10月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2011年10月2日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
主はモーセに言われた、『さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう。・・・・わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。」(出エジプト3:10,12)
 
題「モーセの召命と約束」(出エジプト3:1-15)
 イスラエルの民をエジプトから脱出させる大事業に神はモーセを用いた。エジプトを去って40年、ミデアンの荒野で羊を飼う者となっていたモーセに神はみ声をかけられ、この働きに召し出された。
@「しばはなくならなかった」:神の山ホレブで、神は燃え尽きない柴のうちからモーセの名を呼ばれた。神は不思議をもって御臨在を顕される。神は名を呼ばれる方である。
A「ここにいます」:神はその働きのために備えられ、御声を聞き応答する者を求められる。そのために40年の歳月が必要であった。
B「くつを脱ぎなさい」:そこは聖なる地であり、神を礼拝すべき所であった。
C神の名を顕された。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」先祖の神であり、先祖に誓われた約束を成就される神である。
D「民の悩みを見、・・・叫ぶのを聞いた。」「彼らの苦しみを知っている」:神は私たちを見、祈りを聴いておられる神である。
E「救い出し、かの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地に至らせよう」:神はエジプトを脱出させ、肥沃な豊かな地に至らせる。ご自身の計画を知らせ、人を用いてそれを成し遂げられる神である。
F「必ずあなたと共にいる」:臨在を顕される神である。常にモーセと共にあって、危険から守り、助け、知恵を与え、共に働かれて不思議を行われた。
G「わたしは、有って有る者」:未来完了形。過去現在未来において有ると言われる方。存在させられる者ではなく、御自身で存在する方。なろうとする者になり続ける方である。
 
 
 
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第二主日礼拝:2011年10月9日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」(マタイ5:5)
 
題「柔和をもって救われる神」(マタイ5:5)
1)柔和:やさしさ。@ギリシャ語における反対語は、人との交わりで粗野なこと。怒りっぽいこと、力づくで押しまくること。A柔和を顕すヘブル語のもとの言葉は、欠乏や惨めさを表す言葉。逆境にあり、そこで嘆きわめくのでなく、じっと耐える心、神を待ち望む心です。
1)詩篇37篇。正しく生きる者はこの世において持ち物が少なく、貧しく損をして生きてしまう。悪しき者が豊かになる世の中である。神を知った者は悪に生きることができず、それだけ豊かには生き得ない。ふとねたみを起こす。だから、「ねたみを起こすな、心を悩ますな。」(1節)「怒りをやめ、憤りを捨てよ」(8節)。腹を立て、憤り、自分の無力と不幸を憤る。そういう自分の心に打ち勝とうとする。しかしそこで柔和が語られる。「柔和な者は国を継ぎ、・・・」(11節)。主イエスはこの詩篇を心に留めておられたのでは。「主を待ち望む者は国を継ぐ」(9節)。
3)柔和な者とは、力を用いない者、力づくで生きようとしない者であり、そういう者は幸いだと言う。肘を張って生きない、力を用いないでやさしさに生きる。謙遜に生きる。教会はそういうやさしさに生きようとする。しかし、家庭や地域、職場に行くと力を用いざるを得ない悲しみがあるのではないか。これは理想的における境地か?しかし聖書は「地を受け継ぐ」、地を支配すると言う。神はご自身に似せて人間を造り、地上の支配を委ねられた。その使命と責任を回復し、人間らしく生きるべきである。それは力ずくでは得られない。
4)柔和が引用される聖書箇所は、マタイ11:29とマタイ21:5。後者は、力ずくでなく、やさしさをもって支配する王としてのイエスである。重荷を負い呻くような生活をしている者に、真の安息を下さるやさしい方。弱い者、無力な者を却けず、招き寄せるやさしさ。このやさしさを受け入れる者は、自分も柔和に生きるようになる、そのくびきを負う、主によって慰めを受ける。
 ユダヤ人が国を失った悲しみにある時、力をふるい、肩肘を張って国を回復しようと試みたが、神の御心にかなう国は暴力では作られない。神は柔和をもって、やさしさをもって勝とうとされた。神に信頼し、神を待ち望んで生きるところに私たちの柔和が生まれる。
 柔和とは、ギリシャ人が語る、知恵や力に支えられて何者にも脅かされない高みに立った者が、ゆったりと構えたところから生まれるやさしい微笑ではない。自分はどん底にいるが、神はやさしさをもってここまで来て下さった、それを信じるところに生まれる、ゆったりした思いである。本当にゆったりした思いは委ねきるところから生まれる。その思いを失いやさしさを失うのは、神に任せていられない、自分でみなやらなければ、他の連中は何をやっているのかと思い出す時である。
 主イエスは柔和の王として来られ、数日後に殺された。力ずくの世が神の御子を殺した。力や暴力で打ち勝とうとする世に、真の平和や人間が人間として生きる道を開くために、全能の神がやさしさ柔和をもっておいで下さった。神の力は、神の子を圧殺しようとする人間を滅ぼすのではなく、その暴力に屈したかに見えるイエスを甦らせることによって明らかにされた。力ずくで生きようとする自分の罪に泣く者が望みを持って立ち直れるようにして下さった。
 柔和はまた御霊の実(ガラテヤ5:22,23)である。主を待ち望む者に、聖霊の賜物を与え、主イエスにある共同体が霊の賜物を受け、互いに仕え合い、御霊の実を結んでいく。
 
 
 
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第三主日礼拝:2011年10月16日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイ5:6)
 
題「義に飢え渇く者は幸い」(マタイ5:6)
 私たちは幸い・幸福を求める。人間同士が互いに平和で暮らせれば幸福であろう。互いの関係を正しくするために道徳や法があり、ある一定の基準を満たしていれば正しいと考えられる。私たちは自分の行いの正しさにより人や神との正しい関係を作ろうとする(人の義)が、互いの基準や程度が異なり、律法の要求を満たすことはできなかった。このため人や神との関係が混乱し、怒りや不安・恐れが生じる。
 「義」を表すヘブル語のtsedeqは義とか公正と訳されるが、救いと対概念で、神との関係が義しい時、そこに救いがある。神は人を神のかたちに似た者として造られ、律法を与えて神との関係や人間同士の関係が正しいものとなるように示された。律法を完全に行われる時、義と認められる。しかしそれによって義とされる者はいなかった。
 神は御子イエス・キリストの身代わりにより新しい神の義の道を備えて下さった。主イエスが律法の要求を満たして下さり、イエスを信じる者はイエスの贖いにより赦され、神の霊が注がれ、神の義によって覆われる。神の義を飢え渇き求める者に義を与えて下さる。
 
 
 
 
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第四主日礼拝:2011年10月23日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。主が強い手をもって、あなたがたをここから導き出されるからである。」(出エジプト13:3)
 
題「強い手で奴隷の地から救い出される神」(出エジプト12:1-13,28-36、13:3)
概要
 エジプトの王パロは神の民であるイスラエルを拘束し強制労働をさせ、イスラエルの神を礼拝させなかった。神はイスラエルの民の苦しみを聞き、モーセを指導者として起こし、10の奇跡を行わせてパロやエジプトの民を打ち、主が全地を支配する神であることを示し、イスラエルの民をパロの支配から強制的に解放させた。
10の災害
 モーセとアロンが神の命によりパロの所に行き、イスラエルの民を解放するように求めた。しかしパロは認めず、かえってイスラエルの民の強制労働を重くした。モーセは神の命により10の災害を予告し、それを実行し、解放を迫った。@ナイル川の水が血に変わった災害。Aかえる、Bぶよ、Cあぶの大群がエジプトに満ち、人々の生活を脅かした災害。(@,Aはエジプトの魔術師たちも行えたが、Bは魔術師たちには行えず、彼らはこれが神の御業であることを認めた。)D疫病が家畜を撃ち、多くが死んだ災害。Eモーセが蒔いたすすがエジプトの人と獣に付いて膿の出る腫れ物が生じた災害。魔術師らも苦しんだ。F雹によって人や家畜が死に、木や青物が折り砕かれた災害、パロは罪を認めたが、災害が去ると心を頑なにした。Gいなごの大群により青物や木の実が食い尽くされた災害。予告においてパロの家来は去らせるようにパロに求めたが、パロは家族まで連れて行くことが気に入らず認めなかった。災害後、パロは罪を認めたが、結果的に去らせず。H3日間の深い闇による災害。災害後、パロは罪を認め、家族を連れて行くことを認めたが、家畜まで連れて行く
ことを認めず、結果的に去らせず。I真夜中、主がエジプトの中を通られ、エジプトの男(雄)の長子がみな打たれて死ぬ裁き(災い)。しかし、イスラエルの人々は神に命じられたように、雄の1歳の羊の血を家の入り口の門と鴨居に塗っていて、裁きはそれを見て過ぎ越された。イスラエルの人々はこの時家の中で小羊の肉を焼いて食べ、種入れぬパンに苦菜を添えて食する。エジプトの家で死人が出なかった家はなかった。パロは夜のうちにモーセを召して、イスラエルの民がエジプトからすぐに出て行くように命じた。エジプト人は、「われわれはみな死ぬ」と恐れたから。イスラエルの人々はエジプトの人々から金銀の飾り衣服を求め奪って行った。
新約における過ぎ越しの祭りの意味
 この10番目の奇跡は、過ぎ越しの祭りとしてイスラエルの歴史に最も重要なものとなった。小羊の血が塗られた家におる人々の裁きが過ぎ越された。救い主イエス・キリストの来臨の型になる出来事である。すなわち、御子イエス・キリストが傷なき神の小羊として屠られ血を流し肉を裂かれることによって、罪の奴隷となっていた者が贖われて神の裁きから逃れることができた。新約において、小羊が流された血を記念してぶどう酒を飲み、また小羊の肉を記念してパンを食べる。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。イエスの言葉にとどまる者はイエスの弟子である。弟子は真理を知る。真理はその人に自由を得させる。(ヨハネ8:31-34)
 
 
 
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第四主日礼拝:2011年10月30日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
「神はわれらの避け所 また力である。悩める時のいと近き助けである。」(詩篇46:1)
 
題「嵐の中の信頼」(マタイ8:18-27)
 私たちの心が恐れる時、それはその対象がはっきりしていて、それは目の前に存在し、同時に力を持っているものだ。
 弟子達が恐れたのは、暴風による大波だった。私たちも困難のみに目を向けると、絶望して不信になる。
@信仰無き祈りから信仰の祈りへ
 眠っておられるイエス様に、弟子達は、何度も助けを求めた。助けを求めることが不信仰なのではない。問題は、信仰の欠けた祈りだ。それ故、平安と確信が得られない。神は祈りを聞いておられる。神に全信頼を置いて祈る時、祈りの姿勢が正され、御心にかなった祈りへと導かれる。
A御言葉をしっかり握って
 イエスの言葉は事実となる。その命令に従うなら、そのとうりになる。弟子達は、何度もこれまでのいやしの奇跡を見ていたのに、いざ自分のこととなった時、肝心の信仰が働かなかった。
 私たちは、救いの御言葉をしっかりと握りしめ、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束してくださる主に信頼するなら、嵐であろうと死の陰の谷であろうと、かならず天国にまで導いて下さる。そして、自分ではどうすることも出来ない嵐が、全能の神の栄光を拝する機会となることを信じよう。
 
 
 
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