説教の要約:2011年12月
 
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第一主日礼拝:2011年12月4日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた。」(出エジプト14:31)
 
題「選民を完全に勝利させられる神」(出エジプト14:10-31)
1)イスラエルの民は大いなる奇跡と過ぎ越しを通して、小羊の血による贖いによってパロから救い出され、エジプトを脱出した。〔「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」(ヨハネ8:34) 「罪の支払い報酬は死である。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにおける永遠の命である。」(ローマ6:23)〕
2)昼は雲の柱、夜は火の柱をもって神はイスラエルの民を導かれた。選民と共におられる神。
3)パロと家来らはイスラエルの民に対する考えを変え、精鋭を含む戦車部隊を率いてイスラエルの民を追い、紅海の側に宿営している民に追いついた。
悪魔や罪は容易に人を放さない。〔「一切の重荷とからみつく罪をかなぐり捨てて、・・・」(ヘブル12:1)「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」(ローマ7:15)〕
4)イスラエルの人々は恐れて、エジプトから荒野に導き出したことについてモーセを非難した。私たちの内になお罪に引かれ留まろうとするものが働く。肉の働きは、・・・。(ガラテヤ5:19,21)
5)神の使いはイスラエルの先頭から、後ろに移って、エジプト人の部隊との間を分けた。〔神は神の民を必要に応じて助けて下さる。〕
6)モーセが手を差し伸べたので、強い東風が水を吹き分け、左右に水の垣となったので、イスラエルの民は海の中の乾いた地を向こう岸へ渡って行った。エジプトの軍勢も追って海に入った。
7)主はエジプトの軍勢を乱された。主ご自身が戦って下さる。私たちは主に従う。
8)イスラエル人が渡り、モーセが手を差し伸べると、海の水がもとに流れ返り、エジプトの軍隊は全滅した。
☆神はご自身の大いなる力で贖い取られた神の民を愛し祝福して下さる。神は大いなる力をもって水の中を通し、ご自分の民を救い出し、ご自身の支配の中に移された。これはモーセにつくバプテスマを受けたことである。〔「わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。」(1コリント10:1,2)〕さらに天からのマナをもって養い、雲の柱、火の柱をもって導かれた。これからも外部の敵との戦い、また内部から起こる敵との戦いがあるが、それを通して聖い強い神の民が育成されていった。
 終わりに時代に神は御子イエス・キリストを送って下さり、御子の死による贖いと復活による永遠の命を信じる者を神の子供として下さった。〔 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」(ローマ4:25), 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)〕神を信じ、主イエス・キリストを救い主と信じ、バプテスマを受けて神のものとしていただこう。
 
 
 
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第二主日聖餐式礼拝:2011年12月11日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」(マタイ5:17)
 
題「わたしは・・・ために来た」(マタイ5:17-20)
1)旧約律法と預言の成就者として。(マタイ5:17-20)
旧約聖書は大きく律法と預言者に分けられます。律法は神のみ心を記した戒めです。これを守るなら救われ神の国に入ることができると約束されました。十戒が代表的なものです。人々は守ろうと努力しましたが守りきれませんでした。律法を守ることによって救われない私たちに、神は救い主を遣わす預言を下さいました。イエスが来られて、私が救い主であり、世の罪を赦す者だと言われましたが、人々は、救い主とは武力をもって世界を治める王だと思っていたのでイエスを受け入れませんでした。また人々はイエスが律法を壊す者だと思ったのです。しかし主イエスは、わたしを信じるなら律法を全うする者となると言われました。
 パウロは律法を熱心に守り行うことにおいて人に劣らない人でした。でもパウロでさえ、律法を守り通す努力によっては救いは与えられず、惨めになるだけでした。(ローマ7章) しかし、行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、イエス・キリストが律法を全うして下さり、贖いのみ業を成し遂げて下さったから、イエスを信じ、イエスと一つとなる者を義として下さる、そう信じ、イエスに従っていく時、聖霊に満たされ、自分や人を愛し、実を結ぶ宣教者へと変えられました。
2)罪人を招くため
「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13) 主イエスは、自称義人、自分で私は義しいと思っている人を招くために来られたのではなく、自分の真の心の内にある汚れを知り、神の憐れみを求めないではおれない者のために来られた。どのような状況にあろうと主が招かれる。
 
 
 
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第三主日礼拝:2011年12月18日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(マタイ1:23)
 
題「神われらと共にいます」(マタイ1:18-25)
 クリスマスは教会のお祭りで皆で祝うが、同時に、ただひとり〈神の前に立つ〉思いを持つことが求められている。ヨセフはまさに、そのような人だった。
 @ヨセフの苦悩
 ヨセフはマリヤと婚約していた。婚約と言っても結婚と同じくらいの重さをもっていた。そのマリヤが身ごもっていたことに気付き、深く悩んでいた。密かにマリヤと離縁し、自分が悪者になることを選ぼうとしていた。
 それこそ人には言えない愛と疑いの中で、ヨセフはただひとり神の前に生きざるを得なかったのである。人には誰にも言えない心の一隅(秘部)がある。しかし、そこで神が出会ってくださる。
 A夢で示される
 悩みの中にあるヨセフは一つの夢を見た。その夢の中で、御使いが神の言葉を告げるのである。「マリヤを妻として迎えなさい」ということである。即ち、この女が産む子を自分の事して引き受けなさいということである。イエスはヨセフに迎えられることで、本当の人間になり、本当の人間の血筋を身に引き受けてくださったということである。その血筋とは、まさに罪の血筋である。
 それ故、「彼はおのれの民をもろもろの罪から救う者となるからである」 と言われているのである。それは、十字架において罪を拭ってくださるためであった。これはイザヤの預言の成就だった。
 主イエスの誕生は、神の民の救い、そして人類の救いを意味した。
 十字架の死と復活の主イエスが、やがて昇天され、最後の章18節以下の言葉を残された。それは、「神がわれらと共にいてくださる」ということである。マタイは最初と締めくくりにこの事の事実をはっきりと記した。神が私の最も深いところで、いつでも会ってくださっているということである。私たちがどうであれ、神は私たちと共におられる。私たちが望みを捨てないですむようにしていてくださるのだ。私たちと共にある神は、そのために十字架にまでついてくださったのである。このアドベントの時、私のために降って来てくださった主イエスを想い、献身の思いを新たに捧げよう。
 
 
 
 
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クリスマス礼拝(第四主日):2011年12月25日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2:10,11)
 
題「人間の都合と神の計画」(ルカ2:1-20)
 御使いは羊飼いたちに救い主の誕生を告げた。それは天の軍勢が大喜びし、大合唱する出来事であったが、地上ではわずかな人々が立ち会っただけだった。羊飼いたちは飼い葉桶に寝かされている幼子を見出し、神の約束の成就を見て、喜びに満たされ、神を崇め賛美した。
 御使いが語る「きょう」は人間の計画や予想で救い主が誕生するのにふさわしい日であったろうか。ローマの皇帝が人口調査を強行し、属国とされたイスラエルの人々が混乱している時である。ダビデの子孫であり大工であったヨセフと許嫁のマリヤは望まない時にナザレからベツレヘムに旅させられた。しかし、救い主が、ダビデの子孫から起こり、ベツレヘムで生まれる預言はそれによって成就した。
 ダビデの町はエルサレムにあるが、ルカはベツレヘムをダビデの町と呼んでいる。ベツレヘムはへき地の小さな町であるが、そこからダビデのような偉大な王が生まれたという驚きが込められた地である。旅の途中に、神の御子は誕生し、飼い葉桶に布にくるまれ寝かされていた。
 私たちにとって神に願わなければならない程の自分ではどうしようもない救いとは何だろう。
 天地万物を創造され、永遠を支配しておられる神にとって愛する子供たち(私たち)の救いはあらゆる犠牲を払っても成し遂げるべきことだった。「罪の支払う報酬は死です。」 永遠の滅びである。自分で救われることのできない私たちのために、神は独り子を最も低い立場に立つ者として送って下さった。この方の死と甦りにより、私たちは永遠の命を持つ者とされた。
 
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