説教の要約:2012年1月
 
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第一主日礼拝:2012年1月1日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。(使徒行伝2:42)
 
題「キリストが共におられる共同体」(使徒行伝2:29-47)
1)聖霊が人々に注がれた次第
ペンテコステにおいて、聖霊が弟子たちに注がれた。霊の賜物を受けた。特に使徒たちは異言が与えられ、他国の言葉で神の大きな働きを証しした。あらゆる国からエルサレムに来て住んでいた信仰深いユダヤ人たちはそれに驚いた。ペテロが使徒たちと共に立って説教した時、人々に聖霊が注がれ、3千人もの人々が救われた。その次第はこうである。@ヨエルの預言(2:17)。A主イエスは神が遣わした者(2:22)である。力あるわざと奇跡としるし。B神の定めと予知(2:23)。Cあなた方はこのイエスを十字架につけて殺した。D神はこのイエスを甦らせた(2:24)。E使徒たちは復活の証人(2:32)。Fイエスは神の右に上げられ、父から約束を聖霊を受けて、私たちに注がれた。それが人々の前で起こっていることである。G悔い改めて、罪の赦しを受けるために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた。賜物として聖霊を受けた。H三千人の人々が救われた。
2)聖霊によって生まれた共同体。@使徒たちの教えを守り、A信徒の交わりをなし、B共にパンを割き、C祈りをしていた。@主イエスの教え。神の言葉。命がある。A聖霊は主イエスの言葉を思い起こさせる霊であり(ヨハネ14:26)、あらゆる真理に導く霊(ヨハネ16:13)である。この共同体はイエスによる罪の贖いによって生まれた、イエスを主と告白する共同体であり、この交わりの中に主イエスがおられ、共に働かれる。Bパンを割き、キリストの血と肉にあずかる。聖餐。罪の赦しと新しい命を記念する。C祈りにおいて聖霊が働かれ、罪が示され、赦され癒され、信仰によって約束のものが得られると確信が与えられる。D畏れの念が生じ、多くの奇跡としるしとが起こった。E物を共有し分け合った。F日々心を一つにして神を礼拝した。
G喜びと真心とを持って食事を共にした。H神を賛美した。
3)聖霊の働きについて(使徒パウロ)
@イエスを主と告白する(1コリント12:3)
A霊の賜物(12:4-11)。一つの御霊が教会全体の益となるため各自に与えられる。知恵の言葉、知識の言、信仰、癒し、力あるわざ、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解く力。
Bキリストのからだを建て上げる働き(12:28-)。使徒、預言者、教師、力あるあるわざを行う者、癒しの賜物を持つ者、補助者、管理者、種々の異言を語る者、
C御霊の実(ガラテヤ5:22,23)。愛、喜び、平和(平安)、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。
 
 
 
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第二主日聖餐式礼拝:2012年1月8日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。(ゼカリヤ4:6)
 
題「わが霊による -それは主の働き-」(ゼカリヤ4:1-14)
 BC586年に南ユダは滅亡し、エルサレムの神殿は破壊され、人々はバビロンへ捕囚された。BC538年バビロンがペルシャによって滅亡。ペルシャのクロス王により解放された(エズラ1:1-4)。BC536年にゼルバベルを指導者、ヨシュアを大祭司として、第一次帰還民がエルサレムに帰り、神殿建設を始めた(エズラ3:2,8)。しかし、近隣の人々の妨害によって再建工事は中断された(エズラ4:4,23-24)。この間、人々は自分の家を第一とする利己的な生活に陥っていった。BC520年、預言者ハガイ(四ヶ月間)は神の啓示を受け、指導者や民に反省を促し、神殿再建工事が再開した。ハガイは大胆、率直、熱情的に人々を励まし、また工事にも加わった。預言者ゼカリヤ(二年以上)も二ヶ月ほど遅れてこの神殿再建に加わり、幻を人々に示すことにより人々を励ました。BC516年に四年の歳月を経て神殿は完成した。
 バビロンから帰還したユダヤ人は、周囲の異邦人たちの妨害と物資の不足、そして指導者の無能力から生じる大きな困難に直面していた。ヨシュアは汚れた服をまとい、ゼルバベルは神殿建築に人々を動かす力と信仰に欠け、未使用の建材が山のようになっていた。ユダの民の間に疑いや絶望感、挫折感が拡がり、それが帰還民に大きな山のように見えた。ゼカリヤに、金の燭台と油を入れる器、燭台の上の七つのともしび皿の幻が見せられた。油を入れる器とともしび皿が管で繋がっており、この油を入れる器には二本のオリーブの木から油が供給され続けていた。七つのともしびを持つ金の燭台とは、イスラエルの民であるが、現在のクリスチャン一人一人を表してもいる。尊い金でできており、尊い性質を神から頂いている。この燭台が光を輝かせる働きを果たし続けるために、油が供給され続ける必要がある。油は聖霊を意味する。人が権力や能力に頼って神の宮を建て上げることはできない。争いや裁き合いが起こり、結局完成には至らない。神の宮を建て上げられるのは主の霊による。逆に一人一人の権力や能力が不足していても、神の絶えざる霊の供給をもって導き、知恵を与えられるなら、神はそれを完成して下さる。ゼルバベルとヨシュアは油注がれた者として用いられ、神殿が完成した。クリスチャンである私たちには、天の御座から、大祭司である主イエス・キリストから聖霊が注ぎ続けられる。私たちはイエス・キリストとの交わり、御言葉と祈り、ディボーションを大切にすること、御霊の賜物を頂く、聖霊の実を結ばせていくこと、神の子、主の弟子としてのアイデンティティーを持ち、主の働きに仕えたい。
 
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第三主日礼拝:2012年1月15日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。(出エジプト16:4)
 
題「天からパンを降して養われる神」(出エジプト16:1-18、31-36)
 出エジプトから二か月して、シンの荒野で、イスラエルの民は肉鍋とパンを慕って、モーセとアロンにつぶやいた。モーセらが自分たちをこの荒野で餓死させようとしていると。
 主は、天からパンを降らせ、また肉を食べさせることをモーセに語り、主の戒めに従うべき事を求められた。主が民のつぶやきを聞かれたからである。会衆がモーセとアロンにつぶやくことは主に対してつぶやくことである。民のつぶやきに対して主は必要を満たすことで主が主権者であり、守り手であることを示された。
 主はモーセを通して、毎朝降ってくるマナを集めパンとするように命じた。また、6日目は7日目の安息日を守るために2日分のマナを集めるように命じた。
 夕べにうずらが飛んできて、民は肉を食べることができた。朝はマナ(「これはいったい何だろう」の意。LB)が降った。
 しかし、つぶやくことは不信仰の表れであった。神の不思議によってエジプトから救い出されたにもかかわらず、主が自分たちを餓死させようとしていると言い、パンや肉を慕い求めることは肉欲であり、主を怒らせた。
 マナはその日の内に食べてしまうように命じられたが、次の日まで残す者、また安息日にマナを集めに出る者等、命令に従わない者があり、モーセは厳しく守るように命じた。
 天からのマナを通して、「人はパンだけで生きるのではなく、神様の命令を守ることによって真に生きる」(申命8:3)、「謙そんを学ばせ、信仰を強め、ほんとうのしあわせを与えようとなさった」(申命8:16)とリビングバイブルには訳されている。
 主イエスは自らを天から降って来た命のパンであると顕された(ヨハネ6:35)。主イエスに来る者は決して飢えず渇かず、終わりの日に甦らされる、と約束された。
 
 
 
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第四主日礼拝:2012年1月22日
 
説教者 加藤篤子師
 
今週の聖句
神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。(Uコリント5:18)
 
題「破れ口を修復する者」(エゼキエル22:30,31,Uコリント5:18,19)
 エゼキエルは祭司の家に生まれ、エルサレム滅亡より11年前、紀元前597年に捕囚としてバビロンに連れて行かれ、神の預言者となりました。彼はエルサレムの残っている人々に必ず裁きが下ると説いた。
◇22章、南ユダ王国の罪は最高に達していました。3節、偶像を造って身を汚す町。神と欲とをもつ二心(ふたごころ)を表します。26節より「神のものを区別(・・)しない。そのことを教え(・・)ていない。主の日を無視(・・)した生活は神の聖名が汚されている」と神に言われます。
 神は正義の為にあなた方を他国にまき散らす。そしてあなた方の間から汚れを除くと捕囚の預言です。
◇30節。神の正しい裁き(敵襲)の前に石垣を築き破れ口を修復する者はないか。守ろうとする者はないかと、ここに探す神の愛を見るのです。
 実にモーセはその様な人でした。(出エジ32:11-32)詩篇106:23「それゆえ主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主の御前に立ち、み怒りを引き返し、滅びを免(まぬか)れさせた」
◇21:27。「権威を持つ者」として預言されこの世に遣わされたお方がイエス・キリストです。
 Uコリント5:18,19。イエスは真に神と人との破れ口に立ち、十字架にかかり、生命をかけて和解させて下さいました。
 ですから救われた信者は破れ口に立ち、和解の使節として召されているのです。新しい年を出発して、今遣わされている職場で学校で、コミュニティーや家庭のために御前でどのように石垣を築くことができるでしょうか。どのような破れ口があるでしょうか。何をとりなすことができるかを考えてみましょう。
 
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第五主日礼拝:2012年1月29日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。(マタイ16:24,25)
 
題「主の弟子として命に生きる」(マタイ16:13-28)
 ペテロが、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と信仰告白した言葉に対して、主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もこれに打ち勝つことはない。」と言われた。この世は黄泉の力が働いてくる、支配している世であるが、キリストは神の御子としての権威、死と甦りの力をもって、キリストの教会を守り、勝利させて下さる。
 ペテロは、「イエスは神の子キリスト」と告白しながら、主イエスが苦しみを受け殺されることを示し始めると、それを諫めようとし、自分中心の"救い主"像を主イエスに着せようとした。主はそれを退けられた。主の弟子は主イエスの前に出る者ではなく、主に従っていく者である。自分を捨て、日々自分の十字架を負い(ルカ9:23)、主イエスに従っていく者である。自分の命を得ようと自分中心で生きる生き方は、神が与えて下さる命を失う生き方である。キリストのために、福音のために(マルコ8:35)命を失う者は命を得る。
 自分の十字架に呪われるべき自分の古き人が付けられて滅ぼされなければならない。パウロは、命に導くべき戒めが、自分の内に働く罪によって、自分を殺した、憎むべきことを行ってしまう、憐れな者であることを告白している(ローマ7:7-25)。しかし、キリストと共に十字架に付けられ、古い人が死んで、キリストが私の内に生きて下さる(ガラテヤ2:19,20)時、キリストにあるいのちの御霊の法則は、罪と死の法則から解放した、神の霊が私たちの内にあって、神の律法に従い得ない私たちを、キリストにある死と甦りによって造り変えて下さる(ローマ8:1-11)。
 主の弟子として、新しい生き方を日々選び取っていきたい。
 
 
 
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