説教の要約:2012年2月
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第一主日聖餐式礼拝:2012年2月5日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」(ルカ13:8,9)
題「主の執り成しの中で実を結ぶ」(ルカ13:1-9)
1)やもめの諦めない祈り(ルカ18:1)。人の忍耐。
2)パリサイ人と取税人の祈り(ルカ18:9)。
3)いちじくの譬え。神の忍耐。実を結ばないいちじくはイスラエルの民。畑を塞いでいる。何が命か。神に対して富むことが命を得る道である。神の民が愛し合い、平和に共に生きる。人の弱さを互いに負い合いながら、自分を生かして仕え合うことを神は求めておられる。しかし、世の悪や罪に巻き込まれてしまう。「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」の祈りを捧げるしかない状況がある。
4)13:1-5。「ガリラヤ人たちが殺されたのは、シロアムの塔が倒れて人々が死んだのは、その人たちが他の人々よりも特に罪深かったためではない。悔い改めなければ皆同じように滅びる。」悔い改めない罪、罪に気が付かない罪、それが最も深い人間の罪の姿であり、神にとって役に立たないということである。輝く善行に生きることではなく、悔い改めること、自分の罪を赦して下さる神の憐れみを信じ切ること、それが神の役に立つ民として生きる基本である。
5)いちじくの木をかばう園丁はイスラエルの民を神に執り成す主イエスの姿である。主イエスは最後に十字架に付けられ殺される。いちじくの木をかばって、いちじくに押し倒されるようにして死なれた。イスラエルの為政者や人々が主イエスを十字架に付けた。十字架上で、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分からずにいるのです」という執り成しの祈りを捧げて、彼らの罪を負い身代わりに死んで下さった。
6)なかなか実を結ばないにもかかわらず、キリストの執り成しのゆえに滅びない。キリストの贖いのゆえに実を結ばせない悪いものを処分していただきて、実を結ぶようにして下さる。悔い改めてチャレンジし続ける力を天から与えて下さる。
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第二主日礼拝:2012年2月12日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。」(出エジプト17:11)
題「執り成しの手を挙げよ」(出エジプト17:8-13)
1)神の民の敵が責めてくる。
アマレク人:エサウの子孫と言われる遊牧民(創世36:12)。神の民に敵対する者。(申命25:17)。先祖エサウのように野性的で獰猛であり、好戦的であった。イスラエルが神の民であることを知りつつも、戦いを仕掛けてきた。奴隷の地エジプトを脱出して約束の地、乳と蜜の流れる地に向かって旅する神の民に、敵はかすめ攻め滅ぼそうと挑んでくる。(1ペテロ5:8、9)恐れず勇敢に戦うよう神は命じられた。
2)ヨシュアと選ばれた者が戦いに出、モーセらは山頂で神の杖をとって祈りの手を上げた。ヨシュアら、戦いの訓練を受けている者たちが敵に向かった。モーセらは執り成しの祈りに力を注いだ。私たちの働きも様々な場があり、その遣わされる働きがある。家庭、子供の教育の場、職場、地域社会、お年寄りが集まる場、・・・・。神の働きに敵する考えや習慣、文化、偽りが支配している。その所で、クリスチャンとして振る舞う。神が共におられる者の生き方をしたい。
3)モーセが手を上げているとイスラエルが勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。モーセの手が下がらないようにアロンとホルが両側で腕を支えた。勝敗は執り成しの祈りが決め手であった。神が共に戦って下さることこそ勝利の秘訣である。
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第三主日礼拝:2012年2月19日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」(マタイ6:12)
題「ゆるされ、ゆるすこと」(マタイ18:21-35)
私たちは、誰かに犯された罪は執念深く忘れないし、赦さない。憎しみの主な原因には、愛(期待)が裏切られたり、不当に虐待(いじめ)を受けたりすることである。憎しみに至る背景には、多くの場合憎んで当然だ、誰だってそうしただろうと思えるような状況があることが多い。赦さない心は、人をおとしめそのことにより悔やみ、暗くその心は病んでゆく。だからこそ私たちは憎しみに対して解決の道を持たなければならない。
主イエスは、無限に赦しなさいと命じられた。その根拠は、
@自分がゆるされている者だからである。
僕の一万タラントという返済不可能な借金は、神に対する私たちの罪の重さを表す。私たちは自分の罪が分からない。どうして分からないのか?それは私自身が自分の負い目を認めようとしないからだ。ここで神様は、あなたがたは神に対して大きな罪を負っている者だと知ってほしいと言われている。神の真理に生きていないという負い目だ。私たちの罪の重さは、神の一人子の命に匹敵する。その命のおかげで私たちは赦されたのである。その事を受け止めた時、そして、聖霊が神の愛を私たちの心に満たして下さった時、初めて「心から」ゆるす事ができる。
A自分のために
罪は人の心を縛り付ける。相手の悪を罵りながら、結局は自分の心が頑なになっているのである。赦せない気持ちは、自分に対して「借り」がある人(罪を犯す、傷を負わす人)に向かって、心の中で握りこぶしを振りかざして、返済(罪を認めて謝罪しなさい)と要求しているようなもので、実は、自分が投げ捨てたいと願っている心の痛みをはしっかりと握ったままで離さないでいる。その手が開いてないから、イエス様が愛と癒しを心の痛みに注ごうとしても、受け取れない。また、赦せない心を持っていると、祈りも聞かれない。((マルコ11:25) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第1の手紙1章9節)罪を認めて告白するなら、主は私たちの赦せない気持ち、苦々しい思い、恨みや憎しみを洗い清めてくださるのである。
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第四主日礼拝:2012年2月26日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、/ 今はわたしの目であなたを拝見いたします。それで わたしはみずから恨み、/ちり灰の中で悔います」(ヨブ42:5,6)
題「主に立ち帰る悔い改め」(ヨブ40:1-8,42:1-17)
1)ヨブは神に正しい人と呼ばれる人であったが、サタンからの試みを受けて、大きな試練を通された。子供達やすべての財産を失い、体に重い病を受け、3人の友人から因果応報の論より悔い改めを迫られた。しかしヨブは神の僕としての契約に基づく親しい信頼関係に歩んできた経験に立ち、それを認めなかった。その一方で神の沈黙に対して苦しんだ。その中でヨブは、主が陰府においても自分を覚え、罪を赦して下さる確信(14:13-17)、天に私の証人がおられる(16:18-20)、陰府に降っても自分の肉体の塵の上に、贖う方がヨブの親族として、ヨブと一つとなって立ち、肉体をもってその目で神を見る(19:25-27)信仰に導かれた。
ヨブが主との契約関係の中で主を知り、親しい人格的な交わりの中で導かれたことは正しかった。しかし、それは主の無限のへりくだりによって、恵みをもって罪を贖い、人間に近づいて下さったからであったが、自分を主とあまり違わないように考え、人間の枠の中に押し込めてしまったため、主よりも自分を義しいとしてしまった。
エリフは神の知恵と力は人間に計り知れないこと、神の御心は恵みと憐れみに満ちており、人間の目には理解できない苦しみや悩みを通しても導かれる(36:5-12,15)ことをヨブに説いた。
主はヨブに直接語られ、わたしとあなたの関係で親しく教えられた。ヨブは一貫して主を求めており、主を恐れる者であることが実証されたが、試練を通して自分の罪を知り、さらに計り知れない主を教えられた。(38-42章)
真実な悔い改めにより、ヨブは以前に増して祝福された者となった。
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