説教の要約:2012年3月
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第一主日聖餐式礼拝:2012年3月4日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です』。・・・・・・すると、イエスがシモンに言われた、『恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』。」(ルカ5:8,11)
題「罪を知り、主に従っていく」(ルカ5:1-11)
1)シモン・ペテロは一晩中漁をしたが何も取れないでがっかりしつつ仲間と一緒に網を洗っていた。そこにしゅうとめの病気を癒してくれたイエスが来られて、群衆に話すために、船を出して欲しいと頼まれた。ペテロはそれに応じつつも、お話しに心が動かなかったのではないか。
2)イエスは話された後に、ペテロに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしなさい」と言われた。ペテロは一晩中働いたが、何も獲れなかったことを告げた。「しかし、お言葉ですから」と言って網をおろした所、おびただしい魚が獲れた。
3)ペテロは自分が罪深い者であることを知り、主イエスと近いことを恐れた。ペテロは主イエスが網をおろして漁をせよと言われた時、それに反対だったろう。素人に何が分かるかと思ったのではないか。しかし、神が遣わされた方はすべてをご存じで、小さな者の所に来て、その生活の必要を祝福して下さる。しかも溢れるばかりに祝福して下さる。むしろ自分の自己中心な思いが神の祝福を妨げている。自分は主イエスにふさわしくない者であることを恐れた。
4)主イエスは「恐れることはない」と語られ、ご自身が罪を赦し清めて下さる方であることを示された。さらに、人間をとる漁師、罪に見失われている者を救う働きに召し出された。
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第二主日礼拝:2012年3月11日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイ5:8)
題「心の清い者はさいわい」(マタイ5:8)
1)清めるとは穢れを取り除く、罪なき者とする意味。心が清いという時、心の罪が清められ、神との関係を持つことができることを意味する。
2)私たちの心を清め、神との関係を回復するものは、修行努力ではなく、主イエスの血だと言う。「神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(1ヨハネ1:7)。犯したすべての罪の重荷・負債からキリストの血は贖い清めて下さる。信仰により、恵みにより(エペソ2:8)。体の垢を洗い流すように、日々、その時々、悔い改め、穢れを取り除かれ続けていきたい。「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」(ヘブル9:14)
3)悪い実を結ばせている罪の構造を十字架に付けていく。悪い習慣、条件反射、固定観念、家族システム、否認を十字架に付ける。対象から目を離して、十字架に付けられたキリストを仰ぐ。(ガラテヤ3:1)悪霊の働きを縛る。苦い根を取り除く。
4)マザー・テレサは貧しい者や病む者、不自由を負っている人々の中にイエスを見出すと言い仕えた。
5)罪に穢れた心とは、人やいろいろなものを自分の思いの実現や自分の欲望との関わりでしか見ない心。自分の思いや欲望のフィルターを外される時、イエス様が見えるようになる。
神の清さは穢れた者を排除し滅ぼすのではなく、愛し、招き、清め、救い、御国を受け継がせて下さる。
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第三主日礼拝:2012年3月18日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。・・・」(出エジプト20:3,4)
題「十戒」(出エジプト20:1-17)
神は、モーセとイスラエルの民をシナイ山に導いてこられた。これは彼らと契約を結ぶためだった。一つの大切な条件は、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、」(19:4)と言うこと。
そして契約に伴う3つの特権を与えられた。
@すべての国々の民の中にあって、「神の宝の民」となること。キリストの血によって贖い出されたクリスチャンの一人一人も、神が所有する特別の民とされている。
A「祭司の王国」とされること。神と人との間にあって、仲介の労をとり、執り成しの祈りを捧げる。
B「聖なる国民」とされること。罪深い者であるにもかかわらず、契約の血によってその罪を赦していただき、身分の上で、神のために特別にきよめ分かたれた国民にされることを意味している。現代の私たちも、キリストの贖いの血によって神のために聖別され、また祭司の王国に属する者とされている。特権意識の甘んじることなく、他の人々を救いに導くという、祭司としての偉大な使命を果たしていきたい。
民は、「われわれは主が言われたことを、みな行います」(19:8)と応じた。
第一戒。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
これをしてはならないと禁じたり押しつけているのではない。あなたにとって真の神はわたし以外にはない。わたしの他に何かを神にすることは考えられない。わたしがあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である。神がすでに勝利して下さっているから可能になる。わたしが主であり神である。主イエスが私たちを罪の奴隷の状態から引き出して下さった、師の恐れの奴隷の状態から引っ張り出して下さった。
第二戒。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」自分の都合がいいから、自分の役に立つと思うから偶像を作る。イザヤ44:9-17。木を植えて育て、それを薪にして、火で燃やして暖をとり、またパンを焼き、腹を満たす。何か足りない。神が足りない。残っている薪で心を込めて神を彫る。私をお救い下さい。私の願いを叶えて下さいと祈る。神として祀ってあげているんだから、私たちの言うことを聞きなさい。ハバクク書2:18-。口のきけない偶像、人が思いのままに運んで行って、据えて拝む。自分のすることに口出しする神様では都合が悪い。自分の思うように願いを叶えてくれる。その役に立たなければ捨てる。自分の都合の良い偶像を仕立て上げる。最も恐ろしい偶像は自分自身である。神が私を愛して下さった。神が語り、教え、導いて下さった。神を恐れ、神を愛し、神に信頼することが求められている。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』(ルカ10:27)。
第三戒。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」自分勝手に、自分が主人公のように自分の思いを遂げようとして神の名を呼ぶのであってはない。しかし往々にして人は自分中心にものを考え、動かそうとする。また人が自分を大事にし、自分の役に立ってくれるはずだと考え、周りを動かそうとする。そうではなく、神を神として畏れ、信じ、敬う。イスラエルの人々をエジプトから引き出したように、主イエスが私たちのために死んで甦って下さった。私たちを奴隷の家から導き出して下さった。主イエスは神の名を「アバ、父よ」(ローマ8:15)と喜びをもって呼ぶことを教えて下さった。
第四戒。「 安息日を覚えて、これを聖とせよ。」この日を神のものとして聖別する。捧げる。六日間、せっせと働く。七日目に働きを止め、安息する。創世記第一章、二章。神が六日間創造の働きをされ、七日目を休まれた。造られたものを心から喜び、すべてを見てよしとされ、安息日を祝福された。肉体も魂も休みをいただく。神の言葉によって新しく造り直される。新しく生きられるという思いを持って新しい週を始めることが大切。自分だけでなく、家族や周りの人、一緒に働く者たちが元気を回復して新しい生活をできるように心を用いる。
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第四主日礼拝:2012年3月25日
説教者 加藤篤子師
今週の聖句
「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。」(ガラテヤ2:20,21)
題「私は神の恵みを無にはしない」(ガラテヤ2:19-21)
イエスの直弟子12人を12使徒といいます。パウロはその中に入っていません。使徒行伝9章を見ると、彼はキリスト者迫害途上で復活の主の顕現に会い、全く変わりイエスの宣伝者となりました。
今朝はガラテヤ書の中からユダヤ人(律法)に伝道したペテロと異邦人伝道をしたパウロを比較しながらお話しさせていただきます。
ガラテヤ教会はパウロの伝道した教会です。
1:6であなた方はこんなにも早く心変わりをして、キリストの恵みよりはなれて、違った福音になぜ落ちたのかと非難しなじっています。福音は一つですがパウロはあえて違った福音と言っています。
それはユダヤ教よりキリスト教になった人々がただ信じるだけでなく、律法(義しい行い)を守るのでなければ救われてないと力説しだしたからです。
11〜14はペテロがアンテオケの異邦人教会でイエスの教えを伝えていました。そんな時エルサレムよりユダヤ人キリスト者が上記の違った福音を持ち込みました。するとペテロはその人々に気を使って異邦人キリスト者から離れ、パルナバまでがその偽りの行動に引き込まれ、愛の交わりのない教会になってしまい、パウロは衆人の面前で抗議しました。
ペテロは前にも審きの庭で主の弟子であることを3度も否定しました。この失敗どうしてでしょう。
@福音を徹底的に把握していなかったことです。
A人を恐れたことです。私たちはイエス・キリストを唯信じるだけで救われるのです。行いが伴わないと救われないというのはキリストの贖いの業を否定するものです。今朝、私は神の恵みを無にはしないと告白しましょう。まだ信じていない人は罪を悔い改めてイエスをただ信じて救われましょう。
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