説教の要約:2012年4月
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第一主日聖餐式礼拝:2012年4月1日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「そこでピラトは言った、『何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか』。イエスは答えられた、『あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい』」(ヨハネ19:10,11)
題「イエスの権威とピラトの権威」(ヨハネ19:1-22)
私たちの行動を支配しているものは何か。私たちが恐れているものは何か。そして本当に恐れなければならないものは何か。
ピラトはユダヤの地を支配しているローマから遣わされた総督であり、このユダヤの地にあって最高権力者であるはずであった。祭司長らは、イエスが自分を「ユダヤ人の王だ」と言っていることに対して、死刑にするようにピラトに訴え身柄を引き渡した。ピラトはイエスに問いただした。するとイエスは、自分(イエス)の国がこの世にあるのではなく、また自分の側について武力で守ってくれる者はないこと、自分は真理を証するために生まれ、真理に耳を傾ける者は自分の声に耳を傾けることを告げた。ピラトは、イエスが訴えられているような死罪に当たる罪は犯していないことを認め(18:38)た。ピラトは恩赦による釈放(18:39,40)を提案したが祭司長らは拒否した。鞭打ち、虐待を加えて、ユダヤ人らの同情を買おうとしたが、祭司長たちや下役らは、「十字架に付けよ」と言った。ピラトは「イエスに罪を見出せない」(19:6)と言うと、ユダヤ人らはイエスを殺そうとする本当の理由は、「自分を神の子だとしたことだ」と言い、それはピラトを恐れさせた。
ピラトはイエスに、「私はおまえを有罪にも無罪にする権威があるぞ」と偉ぶったが、イエスは、神の御前においてまた永遠の命の視点において、ピラトには何の権威もないことを明言した。ピラトはユダヤ人たちが訴えているのは信仰上の問題で、イエスが騒動を起こした事実はないので、死罪に当たる罪はないと認めた。祭司長らが訴えているのは妬みのためだということも知っていた(マタイ27:18)ので、何とか許そうとした(19:12)。しかしユダヤ人らは、「自分を王とする者を許したらあなたはカイザルの味方ではない。」と言って、ピラトを裁判の席に着かせた。ピラトはイエスを、「見よ、これがあなた方の王だ」と指し示したが、祭司長らは、「私たちにはカイザル以外に王はありません」とまで言って、完全にイエスを拒否した。イエスは十字架に付けられた。
ピラトは罪状書きを、「ユダヤ人の王」として、他の文言に変えさせなかった。
ピラトは正義に立ち、法をもって裁く立場にあったが、最後は保身のために正義を捨てた。祭司長たちは、律法に基づくと言いつつ、自分の利得を優先したもので、貧しい者、弱い者、病む者らを慰め励まし立たせるもの、神の御心を行うものではなかった。群衆は自分らの意志によらず祭司長らの言いなりになって利得のためにイエスを十字架に付けるように要求した。ピラトや祭司長たち、群衆の罪は私たちの罪でもある。
しかし、主イエスは十字架に共に架けられ、滅びるしかない罪人に、御国を約束して下さる権威を持った方である(ルカ23:43)。この権威によって私たちは救われ生かされる。
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第二主日礼拝:2012年4月8日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」(ヨハネ20:17、新改訳)
題「甦りの主に遣わされる」(ヨハネ20:1-18)
復活信仰は私たちが救われるための信仰の土台です。(ローマ10:8-10) キリストが私を滅びに定めている私の罪のために、身代わりに死んで、そして甦って下さった。私たちの諸々の罪、造り主である神を知らない罪、人を愛さない、愛せない罪、等々のためにキリストが死んで甦って下さった。罪が赦され、新しく御国に生きる命が与えられた、復活祭の恵みを共に感謝しましょう。
1)主が復活されたことをペテロとヨハネは空の墓を見て確信した。
ペテロとヨハネたちはマグダラのマリヤが「主のお身体がない。誰かが盗んで行った。」という知らせに、自ら墓に確かめにやってきた。確かに墓は空っぽであったが、亜麻布の置かれている様子を見て主が甦られたことを確信した。
2)イエス・キリストがマグダラのマリヤに現れて下さった。
3)マリヤに、「わたしにすがりついてはいけない。わたしの父でありあなた方の父、わたしの神でありあなた方の神である方の許に上って行く。そのことをわたしの兄弟たちに告げなさい。」と言われた。
@すがりつき、放さない、キリストを自分の手に握りしめようとするが、そうではなく、キリストの言葉によって、信仰によって歩くことを求められる。
A様々な癒しや、悪霊の追い出しや奇跡を行われたキリストの父なる神は、私たちの父なる神である。キリストが弟子たちをわたしの兄弟と呼んで下さる。
B主イエスが父なる神の御許に行くことは約束の成就、ヨハネ14:〜16:で語られた、主イエスが父なる神の御許に行かれ、そこから聖霊を送って下さる。そのことによっていつも共にいて下さる。何を知る必要があるか、どうすべきか、話すべきか、必要なことを聖霊が教えて下さる、万事を益として下さる、
C良き知らせを伝えるために遣わして下さる。マリヤは自分が無価値で何もできないと思っていたかもしれないが、神がされる救いの知らせを伝える者として用いられた。
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第三主日礼拝:2012年4月15日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。」(ヨハネ20:27、28)
題「信じる者になりなさい」(ヨハネ20:19-31)
トマスは、他の弟子たち(10弟子たち)が主イエスにお会いしたと告げた時も、その傷跡を見、手を差し入れてみなければ決して信じない、と言った。深い失望と恐れに捕らわれていたのであろう。トマスは、ラザロが死んだ時、主イエスと一緒にエルサレムに一緒に行って死のうとまで言い(11:16)、また最後の晩餐の後には、真っ先に主に行き先を問うた(14:5)。主イエスを愛し、どこまでもついて行きたいという思いを持っていたであろうだけに、主イエスが通られた一連の苦しみと十字架における死はトマスに大きな失望と恐れを与え、不信に陥らせたのではないか。
主イエスはこのトマスに現れ、手と脇の傷跡を見せ、指を差し入れてみるように言い、信じる者になるように招かれた。トマスは主イエスに、「わが主、わが神」と告白した。主イエスは闇の力に打ち倒されない力を持ち、死に打ち伏せられない命を持たれた勝利者である。この方は不信に陥っているトマスのために次の日曜日に現れて下さり、信じる幸いにあずかる者として下さった。さらに、見ないで信じる幸いにあずかるようにと招いて下さった。
ヨハネは、イエスが神の子キリストであることを信じ、その名によって命を得るためにこの書を記したことを証し、命を得るように招いた。
罪によって死が人類に入ったが、主イエスはご自身の死と甦りによって罪の贖いをなし、イエスを主と告白する者に罪の赦しと復活の命を与えて下さった。主イエスはイエスを主と告白する人々の群れである教会に罪を赦す権威を与え、この共同体の頭となられ、聖霊によって導き、黄泉の力に打ち勝つ力を与えて下さる。この共同体の中で罪を告白し合い、赦しを宣言し、真理に生きる自由にあずかりたい。また、主から委ねられている宣教の使命と恵みにあずかりたい。
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第四主日礼拝:2012年4月22日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「あなたがたはとくと、わたしの言葉を聞き、/これをもって、あなたがたの慰めとするがよい。」
(ヨブ21:1)
題「心の声に耳を傾けよう」(ヨブ32:1-5、11-12、33:1-28)
3人の友人達の言葉はなぜヨブを慰めなかったのか。エリフの言葉はヨブを神の語りかけに導いた。この違いはどこにあったのでしょうか。
3人の友人達も遠路やって来て、7日7夜ヨブと共におり、黙ってヨブの苦しみに寄り添っていた。ヨブに話させていた。何とか慰め、神の祝福に復帰するように願っていたことだろう。
しかし、3人の友人達は、因果応報(過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること。)の理によって、ヨブを悔い改めさせ、神の祝福を回復させようと考えていた。
一方、ヨブは神との契約関係により神との親しい交わりと祝福を得ていたので、突然に起こってきた悲惨な出来事に苦しみ、恐れ、戸惑っていた。それに対して神が沈黙しておられることが何より不可解であり、3人の友人達の勧めを受け入れられなかった。友人たちの諭しと責めに苦しみが深まるにつれ、その中でヨブは、主が陰府においても自分を覚え、罪を赦して下さる確信(14:13-17)、天に私の証人がおられる(16:18-20)、陰府に降っても自分の肉体の塵の上に、贖う方がヨブの親族として、ヨブと一つとなって立ち、肉体をもってその目で神を見る(19:25-27)信仰に導かれた。そのため、ヨブは法廷において言い争ってまでも自分の義に固執し始めた。
エリフは、3人の友人達とヨブとのやり取りに耳を傾け続けてきたが、ヨブが神よりも自分を義としている点において、また神が不義を許し行っているようなヨブの言葉においてヨブの過ちを指摘した。この際、エリフはまず自分が神の前にヨブと同じ被造物であり、同じ立場で語り合うことを求めた(33:6,7、34:33)。ヨブが尊大になっている間違っている所だけを指摘した。
ヨブが求めている、仲保者、贖い主が立たれる考えを受け入れている(33:23-28)。
神は人間の考えを超えた大いなる方であるから、人間の知恵や知識で推し量りその枠に入れることはできない。
神は人間が知り関わっている世界のみならず、関わり知らない世界や生き物に対しても統べ治めておられる方であり、サタンの力の上におられる方である。神の大いなる存在や力について語っているうちに、神ご自身がヨブに語られ始めた。
ヨブは自らの無知と無力、小さな存在であることを知り、神の前に悔い改める。神はヨブを赦し、3人の友人達のためにも祈らせ、繁栄を元に返し、財産を2倍に増された。
3人の友人達の良くなかったこと
・ヨブの話を受けれないで自分たちの義しさを押しつけようとした
・因果応報論でヨブを罪に定めてしまっていたこと。
・ヨブの心の痛みや叫びに耳を貸さなかったこと(自分の心の痛みについて聞いてもらえないと感じる時には、気持ちが害され心に傷を受けてしまう場合がある。)
・目と目を合わせなかった(6:28)。
エリフの良かったこと
・積極的な聞き方をした。
・ヨブに自由に参加させている。
・ヨブに過ちがあると決めつけなかった。間違っていることだけを指摘した。
ヨブの心は聞く耳を持つように整えられたので、エリフの警告を受け入れた。積極的な聞き方をしたのでエリフはヨブの気持ちをくみ取れるようになり、ヨブの過ちを指摘する権利が与えられた。
やさしくヨブの過ちを指摘しながら、ヨブ自身が神との交わりの回復に心を開くことに積極的に参加するように促すことで、神の言葉を聞けるようにヨブの心を準備した。
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第五主日礼拝:2012年4月29日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)
題「生きた祈り」(Tサムエル1:1-20)
私たちの祈りは全知全能で無から有を起こされる本当の神に向かってなされ、その神との交わりを持つ大切な時である。神は形式的で儀式張った祈りではなく、ありのまま心を明け渡し、信仰の祈りを求めておられる。
@「あなたの道を主にゆだねよ」
原語では「自分の道を主の上に巻き広げよ」ということ。あなたの抱えている重荷を、ありのまま主の前に広げなさい。全部主の前に明け渡しなさいということ。誰にも打ち明けられない事も聞いて受け止めていてくださるお方がいるということは、なんと素晴らしいことだう。
A「そして」「主に信頼せよ」
私たちはともすると、主の前に重荷を降ろすが、立ち上がる時に主に信頼することを忘れ、主が良くして下さる、という事を信じることをしない、という失敗をしてしまいやすい。そしてもう一度重荷を拾い上げ、背負うのだ。ハンナは深く神を知り、心から敬っていた。それ故不可能な事も神には成し得ると心に定め、問題を神との交渉に持って行った。私たちも聖霊の助けをいただいて、「神ご自身を」深く知っていき、それゆえにこのお方に信頼することができる。
主のもとに重荷を降ろして、主に信頼して初めて、「主が成し遂げてくださる」と宣言できる。もし私たちが重荷を再び拾い上げるなら、また自分の力で何とかしようとするなら、主は働かれない。
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