説教の要約:2013年5月
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第一主日聖餐式礼拝:2013年5月5日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、・・・・・わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」(マタイ25:34,35,40)
題「喜びの決算についての信仰」(マタイ25:31-46)
1)天国についての2つの譬え。10人の乙女、灯りを灯すための油を備えて、3人の僕、主人から預かったタラントを用いて増やしなさい、と勧められた。
2)そして最期の譬え。主イエスが王として、栄光の中にすべての御使いを従えて来られ、栄光の座に着かれる。すべての国民が集められ、羊と山羊を右と左に分けられ、右に分けられた人々に、「世の初めから用意されていた御国を受け継ぎなさい」と告げ、山羊に対しては、永遠の滅びを告げられる。
世の終わりに一人一人の生き方や人生の歩み方について決算すべき時が来る。神様の側からの裁断が降される。
3)その理由は、王が飢え、渇き、宿なく、裸で、病で、獄で苦しんでいた時、食べさせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞い、尋ねてくれたからだ、と言われた。日常的な小さな愛を行ってくれた、それが御国を受け継ぐ結果を引き出した。
4)右に分けられた人々が、主イエスに対してそんなことをした覚えはないと言うと、王(主イエス)の兄弟である小さい者の一人にしたのは、王にしたのである、と言われた。
小さい者とは、主イエスの弟子、信者ともとれるし、身近にいる人ともとれる。
小さな愛に生きることが求められている。愛の油を備えて、愛のタラントを増やすように生きるように勧められている。
5)しかし、愛において、地上でこの世で採算が合わないように思えるのではないか。愛の業に励んでも報いが少ない、損ばかりするように思えるのではないか。だが、主イエスはこの採算を合わせるために王として再び来られる。小さな愛に生き仕える者に主イエスは御国と永遠の命を備えて下さる。
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第二主日礼拝:2013年5月12日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」(ヨハネ16:13,14)
題「助け主、真理の御霊が来られて」(ヨハネ16:7-15)
主イエスが弟子たちに、十字架を前にして伝えた大事なメッセージ。
☆弟子たちが不安に思っていた。主イエスが去っていくと言われたから。しかし主イエスは場所を用意するために父の御許に行かれ、そして後、弟子たちを迎えて下さる(14:2,3)。
☆弟子たちには父が分からなかった。しかし主イエスは、「わたしを見た者は父を見たのだ」と教えた(14:9)。主イエスが語った言葉はイエスを遣わした父の言葉である(14:24)。わたしは父におり、父はわたしにおる(14:11、20、)。父がわたしの内におられて、み業を行っておられる(14:10、10:38)。わたしの語っている言葉は父の言葉である(14:10、12:49、8:26、28)。だから、わたしが父の御許に行くから、あなた方はわたしの業よりももっと大きな業を行う(14:12)。
☆主イエスは弟子たちに新しいいましめを与えた。それは、イエスが弟子たちを愛されたように互いに愛し合うことである。それによって主イエスの弟子であることが他の人に認められる(13:35)。いましめを守る者はイエスを愛する者(14:21)、また、イエスの愛のうちにおる者(15:10)であり、父なる神に愛される(14:21)。父と子(主イエス)はその人と一緒に住む(14:23)。
☆ぶどうの枝が木に繋がっているなら豊かに実を結ぶように、弟子たちが主イエスに繋がっているなら、必ず豊かに実を結ぶ。
☆わたしが去っていくと、助け主を送って下さる(16:7)。この方は真理の御霊で、共におり、うちにおられる(14:16,17)。この方は、弟子たちをあらゆる真理に導いて下さり(16:12)、イエスが語ったこと、御業を思い出させる(14:26)。
☆主イエスは平安を残して行かれた。それはこの世の平安とは異なる(16:27)。主イエスは喜びを与えて下さる。父が共におられ、父・子の神に愛されている平安であり、聖霊なる神との不断の交わりにある喜びである(15:11,16:22,24)。
☆父なる神とイエス・キリスト(子なる神)とは一つである。その交わりに、弟子たちも加わり、それにより弟子たちも一つとされる(17:11,21,22,)。
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第三主日礼拝:2013年5月19日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒行伝2:3,4)
題「新しい言葉と力を与える御霊」(使徒行伝1:4-9,2:1-13)
五旬節の日に、一緒に集まっていた弟子たちの上に、聖霊が下られた。
1)天からの激しい風の音、家中への響く。火に似た舌のようなものが分かれて一人一人にとどまった。聖霊は一人一人に懇ろに関わり、必要な取り扱いをされる。
2)一同は聖霊に満たされた。@御霊の語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。知識や能力的には自分にない新しい言葉を与えられた。異言。
A神の大きな働きを語った(2:11)。復活の主イエスが、神の国のことを語られていた(1:3)、また、弟子たちと共に御国の働きを共にしてきた。しかし、それを推進する力を失っていた。しかし聖霊・イエスの御霊が注がれて、新たな力を得た。主イエスが語っておられたこと、されていたことが思い起こされる、その意味が分かる、大胆さが与えられる。
3)主イエスは何をするために立てられたのか。
a)イエス・キリストとは誰か。イエス:主なる神は救い。キリスト(油注がれた者):王、祭司、預言者。
b)主イエスの働きは何か。@弟子作り。何が弟子の証明か。(ヨハネ13:34,他) 弟子がすべきことは何か。(マタイ28:19,20)。神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。(マルコ1:15) A贖罪(マタイ20:28、ヘブル9:11-15)。贖いの小羊。永遠の大祭司。
4)聖霊によって人々が主に繋がる(ヨハネ15:5,)。主を中心とする共同体ができた(使徒2:38,42)。
5)聖霊の賜物を与えた。@御霊の実(ガラテヤ5:22,23)。A霊の賜物(1コリント12:4-10) B霊の賜物を用いる働き(1コリント12:27,28,ローマ12:6-8,エペソ4:11-13)
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第四主日礼拝:2013年5月26日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。」(ルカ10:42)
今週の聖句
「無くてはならぬもの」ルカ10:38-42
目的;私たちが主の前にいることを大事にするなら、主から真のもてなしを受ける。
旅人であるイエス様一行を喜んで家に迎え入れたマルタ(女主人)であったが、愛のもてなし(奉仕)の域を超えた時、心の均等が崩れ、主イエス様を非難するまでに至ってしまった。40節にある、「妹がわたしだけに接待させている」という言葉から、直接的原因は妹マリヤの行動にあるように思うが、そうではない。それは、マルタの心に起こったことである。マルタの心を辿ってみよう。
T、主の言葉からそれる時、心のバランスを失う。
マルタはもてなしに忙しいあまり、主が語られる言葉に集中することができなかった。主の言葉からそれる時、その心は乱れ、自己主張し、他者をさばく。
U、主は私の問題の核心に迫り、自分自身の姿に気づくようにされる。
彼女が持っていた焦りと緊張は、彼女が責任を感じていた「多くのこと」41節から来ていた。私たちは案外、自分の問題に気づいていない。また問題があるとも思っていない。それは何も事が起こっていないからであって、何か起こると、色々な思いが吹き出てくるものである。主の前に謙遜に出て、教えられ、悔い改めよう。その時初めて、心の均等を得ることが出来る。
V、無くてならぬもの
主の足元にすわり、語られるみ言葉に聞き入っていたマリヤは、旅人イエス様を正しく迎え、受け入れた。心の中核が空っぽになると、忙しく立ち働きながら、心は病んでいる。空しさは消えない。マリヤが聞き入っていた主イエスの言葉が入り込んで、そこを満たさないと、この病は癒やされない。だかこそ、私たちは、真実に主のみ言葉のもてなしを受けなければならない。
そして、実は、主に聞く時、初めて真実の意味において、人に〈思いやり〉をかけることがどういうことか、傲慢(自分の思いが先に立つ)ではなく、卑屈(どうせ何もできないからといじける)でもなく、わかってくるのである。
主は私たちひとりひとりにも、ここに座りなさいと、ご自分の足元を示し、招いて下さる。
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