説教の要約:2014年8月
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第一主日聖餐式礼拝:2014年8月3日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」(マタイ7:24,25)
題「賢い人と愚かな人」(マタイ7:24-27)
1)主イエスの山上の説教の最後の部分。主イエスが弟子たちに語られた。モーセとイスラエルの民は律法をシナイ山で受け、神の民として祝福のうちに歩む道しるべを得たが、これを全うできる者はいなかった。主イエスは、人が神に生きることができるように、戒めを新しく語り直して下さった。
2)わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができると言われる。
イエスの山上の説教で語られたことを行う人、生活で実践している人が、嵐や風に飛ばされない、流されない、しっかりした家を建てた賢い人に譬えられる。砂地に建てた人の家は倒れる。
3)「主よ、主よ」という者が皆天国に入るのではない(21)。主の御旨を行う者が天国に入る。主の御名によって働きをしつつ、自分の意志によって、自分のための何かを建てようとすることがある。自分の住まいを建てる働きが、何に根差しているか。イエス・キリストという土台に根差しているか、ルカ6:48。地を深く掘り、イエスという土台に建てる。そうでなく、人間的なもの、この世の計画などの上にに建てているのは砂の上に建てているのである。
キリストの言葉に、キリストという方の上に、自分の生活を立てる。一つ一つの為すべき方向は、山上の説教に示されている。主に導かれつつ、みことばに従っていきたい。
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第二主日特別礼拝:2014年8月10日
説教者 加藤信治師
今週の聖句 「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。・・・・ほかの種は・・・・枯れてしまった。ほかの種は・・・・。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(マタイ13:3-8)
題「種蒔きの譬え」(マタイ13:1-23)
種とは御国の言葉。それによって永遠の命に至る。豊かな実を結ばせる力や働きを持つ。それがどこに落ちて、どうなるのか。
1)道に落ちた種。鳥が食べてしまう。御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。
2)石地に落ちた種。土が薄いため、根が張らず、日照りで枯れる。すぐに喜んで受ける人。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
3)いばらの地に落ちた。いばらが伸びて、ふさいでしまった。御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人。
4)良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなる。
なぜ御言葉を譬えで語るか。聞いても聞かない。聞いても悟らない。聞こえにくい。目が閉じている。心で悟らず、悔い改めて癒されることがない。受け入れ、悔い改めるなら癒されるが、受け入れない、悟らない。神が語られる、神が望んでおられることを受け入れない。自分のやり方、積み上げてきたもの、習慣、伝統、常識にこだわる、守る。電波を受信する際、自分の決めた周波数のものしか受け入れない。神の送られる電波に自分を合わせることをしない。
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第三主日礼拝:2014年8月17日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。」(ヨハネ黙示録2:4,5)
題「エペソにある教会へ」(ヨハネ黙2:1-7)
1)ヨハネ黙示録2,3章は現在のこと、4-22章は今後世界に起こることについて書かれている。2,3章の7つの教会に対する勧めは、当時の教会の問題だけでなく、現在の教会の本質的な問題をもよく顕しており、主イエスが、世界中のすべての教会に対して、今日の教会のあり方や性格というものを、この7つの教会を代表として表現していると見ることができる。
2)エペソは現ギリシャの地方都市で、今は荒廃しているが、当時は交通の要衝にあり、商業の中心都市であった。商売の神、生産の神であったアルテミスという女神を祭った大神殿があり、多くの神殿娼婦がいて、偶像に伴う不品行が町を支配していた。
3)主イエスはエペソ教会の霊的識別力を誉めておられる。〔エペソの町へ使徒パウロが3年間伝道し、多くの人々が救われ、エペソ教会が設立された。(使徒行伝18-20章)、紀元40年代。天に帰られた主イエスがその50年後のエペソ教会の状況を見、あるべき姿や方向を示しておられる。〕エペソ教会は様々な人々を受け入れたが、異端の教えに巻き込まれず、排除した。ニコラオ宗は世俗主義である。使徒行伝6章に6人の執事が選ばれているが、この一人であったニコラオが、後に無律法主義の教えを展開した。イエスが来て救いを完成されたから、あれはいけない、これはいけないと言う必要はない、と。しかしエペソの教会は、その異端を受け入れなかった。〔どんな罪もキリストの贖いによって赦されるという点では一面正しいが、しかし、聖書の教えとは異なる。救われて、恵みを感謝し、キリストの弟子として、キリストに従って生きる、キリストの愛によって互いに愛し合う。キリストから委ねられた福音宣教に(主の証者として)生きる。〕
4)主イエスはエペソ教会が、初めの愛から離れたと責めておられる。霊的に進み信仰が深まっていく時、人を裁き、愛が冷える傾向に陥りやすくなる。自分の努力で救われなかった罪や汚れをキリストの十字架と血潮によって赦し清められた。キリストの愛に心が燃やされた時のその愛の立ち帰りなさいと言われる。霊的な判断力と愛は信仰生活における両輪である。
5)初めの愛に立ち帰るために、悔い改めが必要である。単なる反省だけでなく、生活の方向転換が必要。死と甦りの主を仰ぐ。より頼む、信頼する、明け渡すことが求められる。
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第四主日礼拝:2014年8月24日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」(Uコリント5:14)
題「いのちの用い方」(Uコリント5:14、15)
1、時間の使い方は、そのままいのちの使い方 「生きているということは、自分に使える時間がまだある、ということだ。」
と言った人がいる。しかし、動かしがたい事実は、私たちの使える時間には限りがあるということである。私たちは日々何を何かしら求めて生きている。そして求めた分、その事に時間を使っている。
ピリピ人への手紙2:21にパウロはこのような事を書いている。
“人はみな、自分のことを求めているだけで、キリストのことは求めていない”
神以外のもので自己満足することを人生の目的とし、徹しているこの世の人と変わらないのである。それは『神に逆らう生き方』であり、『肉の思い』であると聖書は言っていることを心したい。
2、神の愛を受けた者として
ヨハネ黙示録7:3節、同じく8章3、4節、マタイによる福音書20:1〜16は、神様は、すべての人が救われて、真理に至るのを望んでおられる事を示している。これは聖書が一貫して語っている真理である。私たちは、神の大いなるあわれみと恵みを受けて既に救われた。それぞれに目には見えない神の印が押されている。それは事実。感謝することは大事だが、あ〜良かったと安心しているばかりではいけない。
まだ生ける神の印が押されていない、あなたの近くにいる人のために祈り、労しなくてはならない。神様はそのために私たちに命を与え、生きる者とさせて下さっている。一人一人に神様の期待がかかっているのである。これが主に救われた者のいのちの用い方ではなかろうか。 そして、ひとりびとりの信仰は次の世代に引き継がれなくてはならない。私の代で終わりです。と言うわけにはいかない。それは神の御心ではない。(申命記5:8〜10)
最後にガラテヤ人への手紙6:7〜9
まちがってはいけない。神は侮られるような方ではない。人は自分の蒔いたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちも善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
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第主日礼拝:2014年8月31日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。・・・・あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」(ヨハネ黙示録2:10)
今週の聖句
「スミルナの教会へ」(ヨハネ黙2:8-11)
スミルナの町はエペソの北部にある港町で、商業が盛んであり、経済的にも富んだ町であった。
1)「初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者」から
主イエスのお姿。試練や苦しみに遭う教会へ。主イエスはご自身を、初めであり、終わりである方と顕現される。この世の強そうに見える者が迫害してくる。しかし、天の聖所で仕えておられる方、私たちを聖霊によって慰め励まして下さる方は、初めであり、終わりである方である、死んだことはあるが、生き返った方であり、今も生きておられる方である。
かつて栄華を誇ったが今はいない者は多くいる。
2)「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ。)
私たちは人の生活の中で、苦難や貧しさを感じるであろうか。しかし、主イエスは人として生まれ、人間の限りあるがゆえの不自由や弱さ、痛み、悩み、苦しみ、悲惨を味わわれた方である。貧しい生活をされた。天におられる大祭司なる主イエスは、しかしあなた方は実は豊かだと言われる。この世的な豊かさのゆえの貧しさや悲惨もある。
3)勝利の約束にあずかる
「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」「悪魔が、あなたがたのうちのある者をためす」「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」
この世はもろもろの支配、権威、闇の主権者が支配する世である。この戦いに立ち向かっていけるのは、神の臨在によるしかない。天におられる主イエスから送られる聖霊によるしかない。すでに戦い、この世において勝利されたイエス・キリストが共に立って下さる。
キリストと父なる神とは真実な方であり、主の真実によって勝利を与えて下さる。@耐えられない試練には遭わされない。試練と同時に、逃れる道をも備えて下さる。(1コリント10:13) Aこの方の真実によって、悪しき者から守って下さる。(2テサロニケ3:3) B私たちが罪を告白するなら、主は真実で正しい方であるから、私たちの罪を赦し、清めて下さる。(1ヨハネ1:9)
私たちに求められていることは、忠実であること、主を求め、主に忠実に従っていこうとすること。何か特別な能力や技術が求められているわけではない、神への真実さが求められている、とはいえ、人間は神のように真実ではあり得ない、あり続けられない、私たちが不真実であっても、神は真実であり続けて下さる、自分の真実によって立つことはできない、神の真実によって、神の延ばして下さる手の確かさによって私たちは立つことができる。キリストに忠実でありたい。
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