説教の要約:2015年2月
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第一主日聖餐式礼拝:2015年2月1日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」(マタイ2:10,11)
題「喜びを満たす方に最上の献げ物を」(マタイ2:1-12)
1)イエスキリストの降誕を祝う記事の一つ。東の国から、ユダヤ人の王の誕生を知らせる星に導かれて、占星術の学者たちがやってきた。東の国はアッシリア、バビロン、ペルシャの国があった、旧約聖書に登場する大国で、イスラエルの民を脅かし、征服した国々であった。この占星術の学者たちは、星占いを仕事としていた人々で、太陽や月、星の動きによって運勢判断を行った知恵ある人々、賢者であったであろう。まことの神の支配を信じる者は占いを受け入れない。この占星術の学者たちが星に導かれて、イエスの降誕を祝いに来たことは不思議な出来事であった。異邦人の学者であったが、真の神と救い主を求めて、星の動きを観察していたところ、不思議な星を見出し、救い主を求めて遠路旅をしてエルサレムにやってきたのであろう。
2)ヘロデ王は学者たちの言葉を聞いて、自分以外にユダヤ人の王が誕生するという問いかけに不安と敵意をもちつつ、学者たちにその場所を知らせるように求めた。エルサレムの人々も不安を覚えた。神の御子の誕生は神の選民には受け入れられるものではなかった。
3)学者たちはベツレヘムに向かって旅を続けたところ、先立って進む星を見つけ、幼子の居場所を見つけて、非常な喜びで満たされた。
4)学者たちは大きな喜びを持って幼子に会い、拝んだ。恵みと平安に満たされたことであろう。高価な黄金、乳香、没薬を献げた。黄金、乳香、没役は彼らが占いや呪術に用いていた商売道具であったという解釈もある。救い主に出会って、彼らは占いによらない真の平安と喜びを見出した。
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第二主日礼拝:2015年2月8日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、『立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている』」(マタイ2:13)
題「殺す王と救う王」(マタイ2:13-23)
占星術の学者たちがヘロデを避けて帰国した後、ヨセフに夢でお告げがあり、ヨセフ家族はエジプトに逃れた(ホセア11:1)。その後ヘロデが、騙されたと知って、ベツレヘムの2才以下の幼児を皆殺しにした。これはエレミヤ31:15の預言の言葉の成就であるとマタイは言う。
ヘロデ大王はエドム人であったが、ローマ帝国の権力に取り入り、それを背景に、ユダヤの大祭司の家系から起こっているハスモン王朝を倒してローマ皇帝の許諾の中に王となった。猜疑心が強く、自分の地位基盤を守るために、妻や子供、血族、祭司らを殺した。
1)ヨセフ一家をエジプトに逃げさせる神の御手。
2)ヘロデ王による幼児虐殺事件。
@ヘロデの悪意と人格。
A悪魔のキリストに対する激しい殺意。猜疑心。孤独。
B人の殺意。罪に気付き、告白し、贖われ、赦され、十字架に付けられ、新しく霊が注がれる。
3)神が遣わされた救い主。
@父子聖霊の神の愛の交わりの中で、神の御子、イエス・キリストの働きが行われた。 Aキリストの贖いと聖霊の注ぎ。
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第三主日礼拝:2015年2月15日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「するとイエスは言われた、『どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか』」(ルカ2:49)
題「神の家が住みかの少年イエス」(ルカ2:41-52)
少年イエスは12歳の時、成人の祝いにナザレからエルサレムに上った。両親は帰途に着いたが、イエスは居残っておられた。両親は一日路行って後に気付き、三日後に、宮の中で教師たちと議論しているイエスを見つけた。聞く人々はその知恵に驚嘆した。
1)両親は12才であるイエスが親元(ヨセフとマリヤ)で共に生活することが当然であると思っていたが、イエスは父なる神の宮が自分の当然の居場所であると考えていた。(参照、詩篇84編)
2)少年イエスは律法学者たちに話を聞き、質問し、律法について学んでおられた。神の前に、律法に従って、親元から自立する、それが成人式であると考えられるが、イエスはそれを忠実に行おうとされた。主イエスは律法を完全に行われた方であり、それによって、罪を贖う全き神の小羊となられた。
3)しかし両親の命令に従って、ナザレに帰り、両親に仕えた。
4)私たちにとっても、イエス・キリストご自身が私たちのおるべき所である。私たちの身体は聖霊の宮であり(1コリント6:19)、またイエスを主と告白する人たちの集まりが神の宮(教会)である(1コリント3:16)。御言葉と祈り、信徒の交わり、教会に生きる者としていただきたい。
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第四主日礼拝:2015年2月22日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。」」(マタイ5:7)
題「憐れみ深い者のさいわい」(マタイ5:7)
「憐れみ」とは、相手をかわいそうに思うようなセンチメンタルな感情を指すのではなく、本当に、相手の立場になって考え行動することだ。その事がどんなに大切かと私たちも思うのだが、その難しさも痛感する。
1、他者の心に寄り添えない難しさ
@自己の思いに捕らわれる
多くの人は、自分の気持ちばかりを大切にして、相手の立場に立って考えたり、感じたりしようという努力を払わない。初めは同情していても、知らず知らずの内に自分の正しさに立ち、反対に相手を批判したり裁いたりし易い。
A人間関係の煩わしさに悩まされたくない
2、寄り添う者となるために
@土台は神の愛
主は、神との関わりなしにはこの愛に生きられないということをここで示している。 神は私達を、ご自分の体のように愛していてくださる。しかもその愛は、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまなだいだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」 イザヤ49:15で告げているように人の親以上のもの。そしてその愛は、不変の愛。主が〈憐れみに生きる者のさいわい〉について語られる時、私たちに、この神の憐れみを思い起こさせ、私たちが、既に神の憐れみの中に生きているという事を気づくように促していてくださる。「憐れみ深い人」とは、憐れみに貧しい(他者に寄り添えない)自分を生かしていて下さる神の憐れみをよく知って、感謝することを知っている人で、その人は、この神の憐れみの千分の一、万分の一に当たるかもしれない小さな小さなわざに、生きようとする。
A手応えのある憐れみ
ヘブル語の〈憐れみ〉という言葉は、他者の心の中にまで入ってその人の立場で物を見、その人の身になって考えること。それを実行し相手と一体になることができたら、先ず、おせっかい(間違った親切)をしなくなるし、人を赦せるようになる。(赦すこと、寛容であることがもっと容易になる)私たちは自分の思いに捕らわれ易いため自分の正しさに立ち、人を裁きやすい。
人を理解するには、話を聞いたりしながら、共に時間を過ごすことである。それにはやはり、祈りがいる。主に教えられて導いていただかねばならない。
私たちはいつも主の愛の中に留まり、自らの憐れみの貧しさを主に祈らなければならない。「このような私どもを憐れんで下さい」と。 そして、相手の立場に立てた時、相手が本当に必要なことをしてあげることができるようになる。そうしたとき、他者へのあらゆる否定的な思い(怒り、嫉妬、憎しみ)が消え去り、自分も祝されるような実を結ぶ。それを可能にして下さるのは、キリストによる罪のゆるし、神の愛である。
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第主日礼拝:2015年月日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
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今週の聖句
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