説教の要約:2016年5月
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第一主日聖餐式礼拝:2016年5月1日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、」(マルコ10:32)
題「先頭に立ち進む主イエス」(マルコ10:32-34)
主イエスはご自分をメシヤだとは言われず、人の子だと言われた。
人の子とは、@人間の子、人の世の労苦を負う者、A終末に来られ世を裁く神が遣わす者、(これが原因で、主イエスは裁かれ、十字架刑に処される)、
世の人々のメシヤ像は力と権力を持ってイスラエルの王国を復興させる者であった。
しかしまことのメシヤであるわたし(主イエス)は、苦しみを受け、殺され、甦らされる人の子である。
そして従ってくる者も日々自分を捨て、自分の十字架を負うて主イエスに従う者である。しかし、それがまことの命を得る道、来たる世において治める者とされる。
主イエスが、これから受けるべき苦しみや死、復活を預言された時、弟子たち、従う者たちに恐れが生じたが、主イエスはその道を進んで行かれた。
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第二主日礼拝:2016年5月8日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。」(マルコ10:43ー44)
題「愛をもって仕え治める方」(マルコ10:35-45)
マタイ20:20-28にはヤコブ、ヨハネの母が、子供たちと共に、イエスに、御国を治める位に着いたなら、その右と左の座に着かせてくれるように願った記事が記されている。
主イエスが、苦難の僕として捕縛、苦難、死と甦りに向かって決然と進み始められたが、ペテロに続く弟子と思われていたこの弟子たちは、誰が上か、先かに心が向いていた。
主イエスは、二つの思い違いを指摘された。1)イエスが受ける栄光や支配権は、苦い杯やバプテスマを通して与えられるものであり、父なる神がイエスに与えられたメシヤとしての使命に伴っているものである。ヤコブやヨハネは、イエスの問いに対して、試練を受けますと言ったが、現実は、イエスが捕らえられた時、見捨てて逃げてしまった。しかし後には、教会の指導者となり、殉教する者となった。 2)イエスの右左の座に着くことを定めるのは、イエスではなく、父なる神であることを明言された。
この世の権威者、指導者は、権威を振るって人や民を治めるが、御国において頭になる者は人に仕える者であり僕にならなければならない、と主イエスは言われた。主イエスは「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マルコ10:45)、「わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」(ルカ22:17)とご自身を顕され、また、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。・・・・つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。」(ヨハネ13:15,16)と言われ、主イエスの模範に従うように求められた。キリストの苦い杯(苦難と死、復活)によって人類に天に属する命が与えられた。この命に与っている者の価値観の中に互いに仕え合う生活を築きたい。私たちが神と人に仕えることによって、人々もこの命にあずかることができる。私たちに与えられているものを用いさせていただこう。
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第三主日聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝:2016年5月15日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わ りをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」(使徒行伝2:42)
題「ペンテコステの恵みにあずかって」(使徒行伝2:37-47)
ペンテコステの出来事によって誕生した使徒行伝2章の教会に、少なくとも4つの特徴的な聖霊のお働きがあったことが紹介されている。
1)御言葉を慕い求める教会
「彼らは、使徒の教えに熱心であった」(新共同訳)
「使徒の教え」とは、旧約聖書を土台とした新約聖書の教えのことを意味する。聖書を読むことの大切さは、日々の聖書黙想と共に通読にある。聖霊は私たちを御言葉に熱心な者へと導かれる。
2)愛に基づく交わりのある教会
主は言われた。「聖書の言葉は、『神を愛しなさい、自分と同じように隣り人を愛しなさい』に集約される」と。御言葉への熱心さは、人を、他者に対する関心へ、無関心から共感へと導いていく。つまり、聖霊の働きによって御言葉への熱心さが相互の交わりの熱心さへと繋がって行ったいうことだ。その具体的な展開として、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(44、45節)とある。神様からの賜物を「共有・分配」する自由さ、大らかさを与えることになったのだ。
3)神と交わる教会
パンを裂くこと、すなわち聖餐、そして祈ることへの熱心として表れた。聖霊が働かれると私と神様との交わりが豊かにされていく。そして神様に対する畏れの念が生じていく。(43節)
4)宣教の教会
聖霊が働かれる時、教会が宣教の教会として整えられ、私たちが復活の主の証人として立てられていく。47節後半に、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあるとおり。主語はあくまでも「主」である。主ご自身が、人々を救いへと導かれ、キリストの体なる教会に加えてくださったということだ。しかも、日々この救いの御業を進めてくださる。
結び)教会はクリスチャンはこうあらねばならないではなく、著者ルカは事実を報告している。
私たちはまず、主の御前にへりくだり、御言葉と共に働いてくださる聖霊に委ねたい。内側から促されることを大切にしていきたい。そのためには、日々の生活の中で静まる時、主からのかすかな御声に導かれていくことが大切。
私たちの希望は、使徒行伝2章の教会に、このような4つの素晴らしい働きをなしてくださった同じ聖霊なる神が、私たちの湘南教会にも、そして私たちひとりひとりの内側にも宿ってくださっているという事実にある。聖霊は4つの特徴を備える新しい人を私の内側に生み出してくださる。
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第四主日礼拝:2016年5月22日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、『ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ』。」(マルコ11:9,10)
題「イエスを王として迎えよう」(マルコ11:1-17)
主イエスは苦しみを受け十字架に架けられて殺され、甦らされる神の子として働きを全うし神の栄光を顕すためにエルサレムに向かわれた。
王としてロバの子に乗ってエルサレムに入場され、人々は自分の上着を道に敷き、棕櫚の枝を振ってそれを歓迎した。
主イエスの言われる通りにした時、備えられたロバの子を借りることができた。ゼカリヤ9:9-12。イザヤ62:11-12。詩篇118:26,27。預言の成就である。主イエスはご自身を、戦いに勇猛な知恵や力で治める王ではなく、へりくだった、柔和な貧しい、しかし、忍耐強い、仕える王としてロバの子に乗っておいで下さった。
主イエスは神が遣わされた者にふさわしい数々の働きを行われた。イエスは人々の病を癒し、身体の不自由を癒し、悪霊を追い出された。盲人を見えるようにし、歩けない者を歩かせ、死人を生き返らせ、飢えた人々を食べさせた。人々はイエスのわざを見て、その力あるわざと教えに驚き、大いなる預言者、キリストだと認めた。キリストが待望されていた。神が共におられてみわざを行われる方、人々を苦しみや病や悪霊の束縛から解放し、神の恵みに支配にあずからせて下さる方、新しい神の国の教えを説き直してくれる方、人々はイエスを待望している人だと受け入れた。神の御心を行う、新しい神の国の働きを始めるキリスト、神が遣わされた者、王であり、祭司であり、預言者である方、神の子である。それは柔和で、仕える、へりくだった、忍耐強い王である。
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第主日礼拝:2016年5月29日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、・・・・。そして、彼らに教えて言われた、『「わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである」と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった』。」(マルコ11:15-17抜粋)
「いちじくと祈りの家」(マルコ12:12-26)
1)二つの出来事
1)葉ばかりが繁って、実が稔っていないいちじくの木に向かって、主イエスが、「おまえの実を食べる者がないように」と言われたところ、翌朝ペテロが見ると木が枯れていた。
2)主イエスはエルサレムに入り、宮の庭で厳しく宮清めをされた。宮の庭で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。祈りの家を強盗の巣にしたと怒られた。
2)過ぎ越の祭りに犠牲の動物を遠方から携えて参拝に来るのは困難があり、また日々の生活で使っている貨幣と神殿で献げる貨幣が違うため両替が必要であろう。また、町の要所にある神殿を通り抜けることが便利だったのだろう。その時代の制度において、それは理に叶っているようにも思われるかもしれない。しかし、そこでは、
@犠牲の動物の売買に心が奪われ、心からの悔い改めや感謝をもって神に捧げる祈りが失われていた。神の求めるのは犠牲ではなく、悔い砕かれた魂である。(詩篇51:16,17、Tサムエル15:22,23)
A異邦人の庭が犠牲の動物の売買や両替、通り抜けに用いられていたと思われるが、異邦人たちの祈りの場が妨げられていた。主イエスが来られて、盲人や足の不自由な者たちが宮に入ってきて神を礼拝し、癒されたことが記されている。(マタイ21:14)。
主イエスは神殿における真実な祈りを回復し、また弱い立場の人々の礼拝の場を回復された。
3)そのいちじくは葉ばかりが繁り、実がなかった。人が多く集まりながら神をまことをもって礼拝する実が失われていた。信仰を持って祈る祈りを神は実現して下さる。大きな山のように見える障害物も海に入るわざが起こる。祈りにおいて、赦し合い、大岩を除いていただき、真に愛し合う者として頂きたい。
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