説教の要約:2016年10月
 
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第一主日聖餐式礼拝:2016年10月2日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。(レビ10:3)
 
題「異火は裁きを 真の火は真の礼拝を」(レビ10:1-15)
☆アロンの子、ナダブとアビフが異火を主の前に献げた。これが主の命令に反することであったので、主の前から火が出て、二人は焼き滅ぼされ、主の前に死んだ。祭司の職に遣わされれる者は神の聖を顕すことが求められている。(10:3,16:1,2)
アロンの二人の子たちは不用意に、香を主の前に焚こうとした。それは神の聖を汚すものであった。
 ナダブとアビフは、出エジプト24:1,9,10、シナイ山で律法が与えられ、契約を結び、山に登って神を仰ぎ見た時、同席した者たちであった。神を知り交わる幸いを受けていた者たちである。レビ記9章で、神から火が出て、祭壇の献げものを焼き尽くされ、そのすべての献げ物、働き、礼拝を神が受けて下さった。神が栄光が顕された。しかし10章において、そのような悲惨な出来事が起こってしまった。
 バプテスマのヨハネは「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)。「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。」(ルカ12:49)。「12:29 私たちの神は焼き尽くす火です。」(ヘブル12:29)。
 人間の肉的な熱心、愛、学問、・・・。神の火に似ている。しかし一方は天からの火、他方は地の火、一方は霊の火、他方は肉の火である。
 聖霊が注がれ、使徒行伝で神の御業が起こっていった、癒しが起こり、人々が悔い改め、信じていった。その中でアナニヤとサッビラが献げ物で、神を欺こうとした。ピリピ1:15。「一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。」1コリント13章も思い起こす。もし愛がなければ・・・。
 アロンは黙っていた。いろいろな私情はあったであろうが、主の聖なる注ぎ油があり、その働きに立てられていた。その職務を全うすることが求められる。聖なる物を聖なる所で食べる特権に与る聖なる務めに召されている。
 神と私たちが直接で会おうとする時、私たちは焼き滅ぼされなければならない者であろう。その間に、イエス・キリストが立って下さった。汚れた者である、不真実な者である、神さまに教えられて、良いことをしようとしても、肉の働きがすぐに混じってきたり、完全から程遠い者である。しかしキリストがそういう者を執り成し、御霊をもって導き、御霊を注ぎ、イエスキリスト知らせ、キリストに似た者に造り変えて下さる。 私たちも永遠の命に自らが与り、また神と人々との和解の使者として用いられ、人々をそれに与らせる務めに遣わされている。そのことを畏れ感謝したい。そのために、御霊によって、祈り証しし、人々に仕えたい。
 
 
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第二主日礼拝:2016年10月9日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。(レビ11:46,47)
 
題「聖なる民としての日常的な戒め」(レビ11:1-8,41-47)
1-7章:いけにえの規定によりイスラエルの民が主のとの交わりにはいることができるようにする手段。8-10章:奉献に際しての仲保者としての職務を果たし、民のために贖いをする祭司職について。11-15章:主との交わりの中で、聖別された民として生きるための戒め。日常生活の中で、聖い民として生きる生活の仕方が教えられる。神は聖いものと汚れたものとの区別を立て、交わりから断たれる汚れを示し、また、その汚れから回復される手段をも示される。民は、主が聖なる神であるところに従って、自らを聖別しなければならない。
 11章は、「汚れたものと聖いもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される」(47)。
(1)食べてよい生き物。動物、魚類、鳥、昆虫。
(2)忌むべき生き物。
 忌むべきものとされた生き物については、肉を食べてはならないばかりでなく、それらの死体に触れてもいけない。食用動物の場合も同じ。死体に触れる者は、「夕方まで」、すなわち、その日の内は汚れた者となり、聖めの手段が必要とされる。神はご自身が聖であることを示され、エジプトから贖い出して契約の民とされたことにふさわしく聖なる者となるように求められている。(44、45)。
 
 
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第三主日礼拝:2016年10月16日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
「このようにしてあなたがたは、イスラエルの人々を汚れから離さなければならない。これは彼らのうちにあるわたしの幕屋を彼らが汚し、その汚れのために死ぬことのないためである』(レヒ15:31)
 
題「汚れときよめ」(レビ12:1-5、13:1-8,45-46,14:1-9,15:1-12、31-33)
癩(ライ)病。重い皮膚病を表すヘブル語(ヘ:nega')は元来、災害・傷・打撲などを意味するが聖書では厳密な意味でのハンセン病の他、種々の皮膚病、特に伝染性の皮膚疾患とか、衣服や壁のかびまでも指す言葉となっている(レビ13:47-59,14:33-48)。
1.汚れと神罰 律法によれば、皮膚病は伝染性の汚れとされている。皮膚病患者は、病気が治り、償いのいけにえを献げて清めの式にあずかるまで、共同体から除外される(レビ13:〜14:)。皮膚病は、神が罪人を"打つ"(ヘ:naga') 災厄中の"災厄"である。イスラエルはそれに脅かされており(申命28:27,35)、エジプト人(出エジプト9:9-11)を初め、ミリアム(民数12:10-15)、ウジヤ(2歴代26:19-23)も、それに打たれる。従って皮膚病は原則として罪の徴と考えられている。ところが"ヤーウェの僕"は罪がなかったにもかかわらず、神に"打たれ"(ヘ:nagua')、"皮膚病患者のようになって"、人々から顔をそむけられることになっている(イザヤ53:3-4)。そして、人類の罪を背負ったこの僕が受ける傷により、人間は癒されるのである。(イザヤ53:5-12)
2.治癒の意味
皮膚病は自然に治ることもあるが、ヨルダン川の水に浸かったナアマンの場合のように(2列王5:)、神の慈愛と預言者の力を表す徴として奇跡的に全快することもある。イエス・キリストが皮膚病を癒したできごと(マタイ8:1-4,マルコ1:40-45,ルカ5:12-14,17:11-19)は、彼がこの典型的な災厄を打ち破ったことを意味する。彼は人間の病気を自ら背負って、これを癒した。(マタイ8:17)。また皮膚病患者を清めて再び共同体に入れた。つまり、浄・不浄の区別を奇跡的所作によって除去する。
このように他の病気の治癒と同じく、彼こそ「来るべき方」(マタイ11:3,ルカ7:19)であることを示す徴である。だから12弟子は、彼に派遣される時、神の国は近づいたことをこの徴によって示すように命令を受け、それを行う権能を授かっている。(マタイ10:8)
      聖書思想辞典「癩(ライ)病」三省堂
 
 
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第四主日礼拝:2016年10月23日
 
説教者 加藤育代師
 
今週の聖句
「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ(マタイ6:10)
 
題「主のみ心を求める」(マタイ6:10、ヨハネ6:27ー40)
 私たちは主の恵みの中でみこころを求め行う者とされている。御心を求めて今日は、ヨハネ6章38、39、40節を見てゆきたい。6章は5つのパンと2匹の魚で、男だけでも5000人を満腹にさせた主の奇跡。しかし、群衆は主イエスのしるしを見てイエスさまが神の子であり、救い主であることを信じたのではなかった。彼らには、この方は私たちの空腹を満たしてくださったという事実だけが残ったわけで、そのような事情の中で、主は彼らに大きなビジョン(やりがい)を示された。それは私たちへのビジョンでもある。
1)永遠の命のために働きなさい。27節
 主は、「あなたは、何を求めてわたしのところに来ているのか?」「結局は自分のお腹のことなのか?」と尋ねられる。私たちは主イエスを信じて救いに与った。それは私たちが神の国に招かれているということ。この事はなくなる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物。その永遠のいのちのために働きなさい。それは、父なる神さまのみこころがイエス様を経由して私たちに与えられているということだ。1テモテ2:4には、
「神は、すべての人々が救われることを望んでおられる」 と端的に述べられている。
2)わたしのもとに来て信じなさい。35節
別なところでは、「だれでも疲れている人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。・・・・・、わたしとくびきを一つにして、わたしから学びなさい」( LBマタイ11:28,29 )
「あなたのみこころは何でしょうか?それに従っていきたいと思います」と言った途端にイエスさまは仰る。「神のみこころは一つだ。わたしのところに来なさい。わたしを信じなさい。あなたの罪、汚れ、あなたの重荷、あなたの不安を一身に背負って十字架にかかるわたしのところに来て、わたしを信じなさい。そしてわたしとくびきを一つにして、わたしと共に歩んで、わたしから学びなさい。わたしのくびきは重くない。わたしは心優しい」と。 37〜39節は、イエスさまが父なる神のみこころを行っている限り、イエスさまのところに来た者を(入り口)、イエスさまはひとりも失うことなく、最後まで入り口から出口に至るまで、その人を恵みのうちに留める(終わりの日によみがえらせる)ことがわたしの使命だと、イエスさまは宣言しておられる。
3)わたしがあなたを遣わす
神のみこころは、イエスさまを経由して、今の私たちに届いている。ヨハネ15章の16節。
 
 
 
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第五主日礼拝:2016年10月30日
 
説教者 加藤信治師
 
今週の聖句
この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。」(レビ16:30)
 
贖罪日のための規定」(レビ記16:1-34)
1)大祭司も至聖所に入ることができたのは贖罪日のみ、神は聖である。
2)自分と民との罪の贖いのために7月10日に祭りを行う。白い清楚な衣を着た(4)。まず自分と家族のために雄牛の罪祭を捧げた。罪祭の雄牛を屠り、至聖所の贖罪所に香を満たし、(死を免れるため)、血を贖罪所に注いだ(11-14)。
3)その後に民のために二頭の山羊のうち、罪祭のくじに当たった山羊を罪祭に捧げ、人々のもろもろの罪、聖所、幕屋、祭壇の贖いのために捧げた。
4)先にくじでアザゼル〔逃れる山羊の意〕に当たった山羊の頭に手を罪を言い表し、山羊に罪を負わせ、荒野に放った。荒野に放つのは別の人が行う。荒野とは不毛の地で、罪を負った山羊は再び帰っては来ない。
5)会見の幕屋の働きを大祭司は一人で行う。
6)大祭司は服をいつもの華やかな祭服に着替え、自分と民のために燔祭を捧げ、罪祭の脂肪を祭壇で焼く。罪祭の皮、肉、汚物は宿営の外の決まった所で、別の人が焼く。アザゼルを放った者、罪祭のものを宿営の外で焼きに行った者が衣服を洗い、水で身をすすぎ、宿営の中に入る。
7)イエス・キリストは、汚れのないご自身の贖いの血を持って、ご自身の肉体の垂れ幕を通って、真の至聖所である天に入られた。(ヘブル9:11)。この方は人として来られたがレビに属する者ではなく、アブラハムを祝福したメルキゼデクに等しい大祭司である。自分のために罪祭を捧げる必要のない方が永遠の大祭司として真の天に入られた。ご自身が完全な供え物となられ、捨てられたアザゼルとなられ、贖罪をされた。これによって不完全な贖罪ではなく、完全な贖いをなされた。神が定められた贖いの方法。
 
 
 
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