説教の要約:2016年12月
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第一主日礼拝:2016年12月4日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「 20:1 主はまたモーセに言われた、 20:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。」(レビ記20:1,2)
題「死に定められる罪」(レビ20:1-16,22-27)
1)19章の道徳律の具体的な適用によって生活をきよめ、高めた後に、この章の戒めと刑罰が罰則として覚えさせられる。子供をモレク(アモン人の神モレクに伴う不品行の道具として)にささげる者は、民の石打の刑により神の民の間から断たれる。(2-5,18:21)。霊媒や口寄せの所に行く者も同様に神が罰せられる(6、19:31)。男女の霊媒や口寄せ自身は、石打の刑で殺されなければならない(27)。父母を呪う者(9、19:3,出エジ21:17)、姦通した男女(10、18:20)、義母を犯す者(11,18:8)、嫁を犯す者(12,18:15)、男同士で寝る者(13,18:22)は、二人とも「必ず殺されなければならない」。母娘を同時にめとる者(14,18:17)は、「彼も彼女らも共に焼かれなければならない」。獣姦を犯す者は(15,16、18:13)は、本人も動物も「必ず殺されなければならない」。モレク礼拝や霊媒を口寄せを「慕って姦淫を行う者」に対しては、神自身が「その者から顔をそむけ、その者を民の間から断つ」と言われる。
2)7,8節で、自らを聖別することを求め、掟に従って聖別するように語られた主なる神が強調される。聖い生活とは、すべての偶像礼拝との淫行から分離して、聖なる神の言葉に聴き従って歩むことである。肉の欲情に従って偶像礼拝に走ることは、当然の結果として種々の破廉恥な性行為に走らせることになる。そこで続いて、不品行を犯した者たちは関係する両者が共に罰せられることが語られている。死刑に処せられるべきであり、「その血の責任は彼らにある」(11,12,13,16)。自分の犯した罪が自らの死を招く。
3)22-26に、聖い生活を送るように求めている。(参照18:24-30)。神のすべての掟と定めとを守り、先住民族の風習に従わないなら、彼らを追い出したようにあなたがたを吐き出さないと繰り返して約束される。主はイエスラエルをご自分のものとしようと「国々の民から選り分け」られた。聖い生活とは、主の忌み嫌われることから自分たちを分離し、主の言葉に従順に従うことである。
4)殺人者(24:17,21,出エジ21:12,民数35:16,17,18,21,31)、父母を打つ者(出エジ21:15)、人をさらった者(出エジ21:16)、安息日を守らない者(出エジ31:14,15、35:2,民数15:35)、主の御名を冒?する者(レビ24:16)、聖なるものを汚す者〔幕屋で用いる香油や香料と同じ組成のものを造ったり嗅ぐ者(出エジ30:33,38、身が汚れているのに聖なるもの(和解のいけにえの肉を食べる者、レビ7:20,火祭にささげるべき脂肪を食べる者(レビ7:25)、血を食べる者(レビ7:27)、〕、幕屋での聖具の扱う者(民数1:51,3:10,38)、等。
新約はすべての罪は主イエスの贖いによって赦されるが、聖霊を汚す罪、言い逆らう罪(マタイ12:31,32)は赦されない。
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第二主日聖餐式礼拝:2016年11月11日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「主はまたモーセに言われた、『イスラエルの人々に言いなさい、「あなたがたが、ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。これらはわたしの定めの祭である。・・・・」』」(レビ記23:1,2)
題「主の祭り(1)」(レビ23:1-22)
「ふれ示して」(口語)、「召集する」(新改訳)は、「聖会」(口語)、「聖なる会合」(新改訳)と同じ語源カーラーから来ていて、「呼ぶ、呼び集める、助けを求める」といった意味を持つ。キリスト教会、エクレシア(呼び出された者)の起源がある。エジプトの地から召し出され、神の民として仕えるために神の下に集められた「聖なる会合」であり、また定められた時に集まることを意味する。約束の地に入り、様々な宗教や文化、技術を誇る先住民が居住している地に住む。荒野を旅してきたイスラエルの民が散って行き、その影響下で、主の召しと契約を覚えるために、主の前に共に集まり、祭りを持つことは必要なことであった。
1)安息日。六日間働き、七日目に安息する。主の創造の御業に由来する。人は創造主から離れて、安息を失った。一切の仕事を中断して、主に安息する時を聖別することが求められた。安息日を守らない者は民から断たれた。
2)過ぎ越しの祭、種入れぬパンの祭(出エジ12:3-20,レビ23:6、民数28:16,申命16:1-6)
小羊の血が門と鴨居に塗ってあったイスラエルの民の家は神の裁きが過ぎ越したが、そうでないエジプト人の家は人も動物も長子が神の裁きによって死んだ。それによって神の民はエジプトやパロの支配から解放された。神は、そのことを覚え記念して、過ぎ越し祭を定められた。種入れぬパン、苦菜を添えて、小羊の肉を焼いて食べる。
主イエスが傷のない贖いの小羊として過ぎ越しの時に殺された。この小羊の血によって衣を白くする者だけが御国において神を礼拝できる。(ヨハネ黙7:9,14)。素祭、火祭(燔祭、)をもって礼拝する。
3)初穂の祭り
収穫祭。収穫の初穂を祭司が主の前に揺り動かす。主イエスは初穂として甦られた。
4)七週の祭り
過ぎ越祭の安息日の翌日から七週を経た安息日の翌日。50日目。新しい約束の地における収穫感謝祭を行った。この祭りを真実に行う者がまた次の年の収穫に与り、最終的な収穫に与る。
新約時代の聖霊降臨により、御国に与る霊の大きな収穫に与った。主イエスの十字架、復活、昇天を通して、霊の収穫に与る。
5)貧しい人々への配慮。
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第三主日礼拝:2016年12月18日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。」(マタイ6:12)
題「健やかな人生のために赦す」(マタイ6:12、詩篇51:3-4)
1)赦しは自分のため
主イエスは弟子たちから、「相手のひどい言動(罪)に対して何回くらいまで赦せばよいですか」と尋ねられて、「7の70倍赦しなさい」と答えている。これは「すべて赦しなさい」と言われていることと同じだ。赦せないと思うほど深く傷つけられて、恨んだり怒ったりしているのだから、実際に相手を赦すことは難しい。それでも赦し合うことを勧めておられる。また、私たちは社会で生きている以上、互いに誰かを傷つけていることはあり得る。悪意はなくても自分の言動のせいで怒っている人がいるかもしれない。そう考えるとき、安易に「赦せない」と言えるだろうか。 それに心の中で恨み怒り続けているとき、その感情をいちばんに浴びているのは、他ならぬ自分自身だということを知らなければならない。自分で自分を苦しめていることになる。ヨハネ・パウロU世教皇は、赦さない人はこだわりに縛られ、赦していない人の支配下にあると言う。人を許赦す時、赦した人は自由になり、解放される。その人は未来を創造的に切り開いてゆくことができる。
2)赦されることと赦すことは一つ
主の救いに与った私たち(既に赦されている私たち)が人を赦すことができるのは、主が先に自分を赦してくださったからだ。故に赦された私たちはなお進んでゆるし、相手を裁いたことや諸々の罪を神様に赦してもらわなければならない。神のゆるしは先に来る。ローマ5:8、Tヨハネ4:10、マタイ18:21〜35 神様は私たちの一万タラントの負債(罪)を赦してくださった。この恵みの大きさの中に、あなた入れられたんだよと教えておられる。
3)主イエスの祈りに支えられて
それでも私たちはなかなか寛容になれない。それは自分の負債(罪)の大きさが分からないし認められないからだ。私たちの罪は、その根本のところで、神を傷つけ神を裏切っている。そのため、神との交わりをそこねている。(詩篇51:3ー4)
罪の悲惨さ故、罪を厳しく語る主イエスを人間は十字架につけた。しかし、その十字架につけられた主イエスが、私たち人間の罪の赦しのために祈られた。
『父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカ23:34)
それは、私たちの神に対する罪(負い目)の重さを、神の子イエスだけは、真実に悩んで苦しんでくださったということだ。 この十字架を知る時に初めて、自分の罪の深さを知る。赦しを与えてくださる十字架に向かって歩み続けられた主イエスが、その途上で教えられたのが、この主の祈りなのである。私たちは与えられている恵み故、進んで赦そう。
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第四主日クリスマス礼拝:2016年12月25日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせた事を、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である』」(レビ記23:42,43)
題「私たちのために仮庵に住まわれた主」(レビ23:33-43)
神の民が奴隷の地エジプトから、モーセを通して語られ行われる神の不思議な導きの中脱出した。荒野の40数年を天幕住まいし、約束の地への旅をその間を神は守り支えて下さった。エジプトから、今のパレスチナ、ヨルダン川西岸の地へ、男だけでも60万人、女、子供も入れると、数百万人の人々が、民族大移動をしたが民の数は維持された。彼らは天からのマナと飛んでくるうずらの肉、岩から湧き出す水で不思議に養われた。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれ、神の言葉である律法が与えられ、幕屋、移動型天幕神殿を命じられたように造り、そこにおける犠牲や捧げ物による神礼拝を行い、そうすることにより、神が民の中心に居って導いて下さる、民族のアイデンティティー、生き方を作っていった。
しかし約束の地に入って征服していったが、慢心し、神の戒めを聞かなくなり、異邦の習慣や偶像崇拝が入ってきて信仰の純粋性が失われ、それと重なるように敗北し、衰え、不和が生じ、病み、滅びが入ってきた。神中心でなく、人間中心となる、戒めを守っているようだけれども、人間中心に守っている。信仰の歴史、あるいは神の人への働きかけは、神に立ち帰りなさい、神の心に立ち帰りなさいです。
やがて12部族が、それぞれ勝手なことをし出した。サムエルという預言者が立てられ、心を合わせてきたが、王様を立ててくれと言いだし、また良い王様もあるが、偶像を拝み、民を虐げる王も起こり、国は分裂し、その逸脱が、どうしようもないところまで行って、他国に国を奪われ、他国へ捕虜となって連れて行かれ、奴隷とされた。
そういう惨めな歴史の中にも、神は約束の民を捨てられない。やがてちりじりバラバラになった人々が、約束の地に帰ってくる、そして、心を合わせて、神の御心を行う民が回復される。神が一人一人の心の中に住んで、新しい霊を与え、憎しみや敵意、怒りや赦さない思い、そういうものを、祭壇に焼いて、人を愛する新しい心を作って下さる。
一人一人の内に住んで下さる救い主として、イエス・キリストが来られた。この方は大工の息子として、馬小屋に生まれ、羊飼いらや東方の占星術の学者らの祝い・礼拝を受けた。この方は預言された私たちを罪から救い、「神共にいます」を実現して下さる救い主です。
信仰の中心は神礼拝。仮庵の祭りは、出エジプトして、荒野をさまよい、約束の地カナンへさまよう40年の間を、神がイスラエルの民を守られた、食糧、水、衣類・履き物、外的からの守り、内部のルール造りや結束を作り、約束の地に導いて下さったことを記念して、その季節に、仮の庵を造って一週間生活し、不便不自由を感じつつ、神が民を大きな力、不思議な御手をもって救って下さったことを忘れない、思い起こす。それができたのは、神が民の真ん中に住んで下さったから。
しかし幕屋は救いの本体の型であり、救いの実現者としてイエス・キリストが来られた。クリスマスはキリストの降誕を祝う。神の良きものが私たちに与えられた。神が私たちの内に幕屋を張って下さった。
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第主日礼拝:2016年12月日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
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