説教の要約:2017年1月
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第一主日礼拝:2017年1月1日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。」(ネヘミヤ8:10)
題「主を喜んで力を受けよ」(ネヘミヤ8:1-18)
ネヘミヤは、バビロンの捕囚民であったが、ペルシャ王に献酌官として仕えていた。ユダから来た残留者から、エルサレムの城壁が崩れたままであったり、そこに住む残留者たちが困難な中、そしりを受けている様子を聞き、断食して神に祈った。王がネヘミヤの悲しげな様子に原因を問うて、結果、エルサレムの城壁を築くために帰還することを認めた。
ネヘミヤは総督として、帰還し、城壁の改修に取りかかり、地の有力者や異邦民からの精神的圧力、工事の妨害に遭ったり、買収や罠など様々な妨害を受けたが、ユダヤ帰還民が力を合わせ、戦いつつ、修繕していった。また同胞の結束を揺るがす、内の貧富の差や奴隷化などの問題に直面したが、利子を取らず、土地や財産を返却し、力を合わせて城壁を修繕し、また律法に基づくユダヤ人同士の関係や国家を回復・修築していった。
改修が終わったが、敵が攻めて来るかもしれないという緊張感の中、まだ、城壁内の家屋も整っていない中、7月1日のラッパを吹く日を迎え、人々は律法の書に耳を傾けた。バビロンへの捕囚、帰還、神殿建設、城壁修繕を終え、それを成させて下さった神を誉め讃えた。かつての神殿の栄光から比べると、落ちぶれた弱小民の惨めさを味わいつつ、しかし、悔い改めて、主の名を呼ぶ時に、主はその民を捕囚の地から約束の地へ立ち帰らせて下さった(エレミヤ、エゼキエル)、その約束の真実に涙を流さずにはおれなかった。
主の聖なる日だから、憂えてはいけない。主を喜びなさい、と教える者たちは語った。食い飲みし、分け合い、大いに喜んだ(8:9-12)。そして仮庵の祭りを祝い、律法を読み、聖会を持った。
主イエスは、祭りの終わりの大事な日に、「渇く者はわたしの所に来て飲め。わたしを信じる者は、聖書に書いている通り、その腹から生ける水が川となって流れ出る」と語られ、これは、御霊を指していると聖書は語る(ヨハネ7:37)。主イエスは喜びがあなた方の内に宿り、満ち溢れる(15:11)と。主の霊が宿り、真理を知らせ、主が共におられて苦しみや試練の中にも喜びが宿ることを約束された(14:20-24、16:20-24)。御霊の実を結び、喜びが宿る。新しい年、主の御言葉を行い、主と共に生かされ、喜び、実を結ぶ者をさせていただきましょう。
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第二主日聖餐式礼拝:2017年1月8日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ22:37-40)
題「最も大切な戒め」(マタイ22:34-40)
ある律法学者の最も大切な戒めは?との質問に対して、主イエスは、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』の二つの戒めを示し、律法の全体と預言者がこれにかかっていると教えた。
第一の戒めは、申命記6章4節からの引用で、約束の地に入って、日常生活の至る所で思い起こし心に刻みつつ歩むべきものであることをモーセは民に教えた。イスラエルを約束の地に神の不思議をもって導き入れられた天地創造の神は、「わたしは主である」とご宣言下さる神である。この神を知識、感情、意志をもって愛すべきである。神は私たちを愛し、導き、守り、備えられる方である。聖なる神の戒め、律法に従う時祝福を受ける。背く時、滅びを刈り取る、しかし悔い改めて主に立ち帰る時、主は祝福を回復して下さる。神に愛されている、だから私たちも神を愛さずにはおられない。
「自分を愛するように隣人を愛せよ。」レビ記19章18節。この章では、落ち穂を残し、刈り入れのぶどうを採り尽くさず、貧しい者や寄留者に残すことを命じている。弱者に対する憐れみと思いやりに富む神であり、その神の御心を行うよう聖なる神の民に求められている。
道徳や倫理、常識、習慣として教えられているものもあるが、生まれながらの私たちには身につきにくい。自分の犠牲を払ってまで他者のために与える能力は身につきにくい。神はまずキリストにより、私たちを愛し、その愛を実践し、与え、癒し、負い、死んで下さった。聖霊を与え、真理を知らせ、内に住み、新しい心を与えて下さり、さらに神の良きものを収穫させて下さる。
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第三主日礼拝:2017年1月15日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。」(マルコ1:14,15)
題「悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:1-15)
主イエスが宣教を開始するに当たって語られた。(15)。福音宣教はこの言葉に要約され、繰り返し、み言葉やみわざを通して語られた。新しい福音の時代が来ており、始まった。
1)「時は満ちた」:神の時がある。伝道の書。3章。人の世は労苦に満ちている。
赤ちゃんの出産。時が満ちて生まれる。親に、周りの人々が待ちこがれて生まれてくる。神の民の救いの歴史の中で、人々が待ち望んでいた。生活の労苦、不和や争い、虐げ、貧困、戦い、捕囚、苦悩の歴史があった。多くの預言者を通して、神に召され、神の言葉を告げる、王、祭司、預言者である、神の子である方が来られ、救って下さる預言があった。時が満ちてそのことが始まった。
2)「神の国は近づいた」:神の国とは神の支配。現在完了形の言葉。神の国が近づいているがまだ完了していない。イエス・キリストを通して、神の支配が始まっているが、まだ完成していない。神が共に居って下さる。〔旧約時代。神が共に居られる時、イスラエルは勝利し、豊かになり、民が繁栄した。しかし、神から離れ、偶像崇拝し、争い、虐げ、神の御心から離れていると、病み、敗北し、捕囚に遭い、滅びを招く。〕神が支配される時、平安や喜び、愛、神の良い性質が生活の中に満ちている。
3)「悔い改めて、福音を信ぜよ」:福音は良き知らせ。戦いにおける国の勝利や王子の誕生、王位に就く、などの知らせ。素晴らしい出来事が始まった。その中に生きる。生かされる。イエスが新しい福音の時代を始めて下さった。今までの神から離れ、神を見失っていた働きから方向を変えて、神に立ち帰ろう。
人は神を見ていない。この世の様々なものに目を奪われている。それでは神が見えない。それを悔い改めて、それから解放されて、それを十字架に付けて、イエスの復活の命に生かされよう。主イエスは、神が共に居られる方である。イエスの復活の命に生かしていただこう。
神の言葉と神の霊が導いて下さる。みことばを読み、祈る時、主イエスが共におられ、導かれる。
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第四主日礼拝:2017年1月22日
説教者 加藤信治師
今週の聖句
「イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。」(マルコ1:17)
題「人間をとる漁師にする」(マルコ1:16-20)
1)主イエスはペテロとアンデレに「わたしについてきなさい」と呼び出された。主イエスが宣教の働きを進めるのに、自分一人で、ではなく、弟子たちと共に行い、その初めに弟子たちを呼び出された。
「あなたを人間をとる漁師にする」と言われた。2人は自分の生活の糧を得る仕事であった網を捨ててイエスに従った。ヤコブとヨハネも父や雇い人を残してイエスに従った。弟子はイエスについていく人、イエスに従っていく人である。ルカ5:1-11にも、4人の弟子たちの召命が記されている。自分の罪深さを知り、神の大能、神が遣わされた方の豊かさを知り、弟子たちはイエスに従った。ヨハネ1:35-43には、バプテスマのヨハネの弟子だったアンデレが、イエスについて行き、また、兄のペテロを主イエスの許に連れて行く姿が描かれている。イエスに神が遣わされた方であると信じさせるものがあったのだろう。
主イエスは「あなたがたを人間をとる漁師にする」と言われた。主イエスが召される目的は、人間をとる漁師とすること。エレミヤは漁夫や猟師を用いて、罪を暴き出す神の働きを語る。しかし、主イエスは大漁を経験させた後に、弟子たちを主イエスの救いの働きを担う弟子の務めに召し出された。
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第五主日礼拝:2017年1月29日
説教者 加藤育代師
今週の聖句
「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救い下さい」(マタイ6:13)
「誘惑にあわせず」(マタイ6:13、エペソ6:10-17)
1)主は我らの弱さを知っておられる
その弱さとは、神様を信じることができなくなってしまうような弱さ、また色々な誘惑にあって神様から離れてしまいそうになる私たちの弱さだ。「試みにあわせず」の「試み」という聖書の言葉は、「誘惑」とも訳す。「あわせず」という言葉は「引きずり込む」という意味を持つ言葉。イエス様がこの最後の祈りを私たちに祈るように命じられたということは、私たちの生きる身の回りに誘惑が存在するということを知っておられたということだ。
2)その問題(弱さ)のある私たちをおびき寄せる存在がいる
誘惑とは、私たちを神様から引き離すもの。聖書には、悪魔が誘惑をしてくる場面が度々登場しているが、そのすべてが神様から人を離そうとする試みだ。(アダムとエバ、ヨブなど)「悪しき者」の悪魔は、私たちの心に様々な機会を用いて、神様を信じること(祈り)は無意味だ、信仰とは窮屈なものだ、そんなことはやめて自由になったらよい、自分の思い通りに生きたらいいとささやきかけて不信仰をかきたてる。
3)誘惑に打ち勝つために
イエスさまが荒野で悪魔の誘惑に打ち勝たれたのは、御言葉によってだった。(マタイ4章)
「人はパンだけで生きるのではない。人は神の口から出るひとつひとつのことばで生きる」(申命記8:3)
エペソ6:10〜17には悪魔の策略に勝利するために、私たちが身につけるべき神の武具が示されている。「御霊の与える剣である神のことば」(17節)とは、当時の剣が短いように短い御言葉。
できるだけ多くの、短い、力強い神のことばを心に蓄えよう。試練や困難、不安な時、聖霊によって、皆の心に次から次へその御言葉が与えられ、その瞬間に私たちの心は、きっと明るさを取り戻すに違いない。悪魔との戦いは血肉による戦いではないが、聖霊が必ず短い剣を、鋭い両刃の剣を私たちに与えてくださり、私たちはその火矢を断つことができるということを覚えていたい。
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